石田三成の実像2153 中野等氏「石田三成伝」83 唐入り26 在番体制を整えて帰還

 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、文禄2年8月22日付の大谷吉継・石田三成連署状が取り上げられていますが、その連署状について次のように解説されています。
 「充所とされる島津義弘・長宗我部元親(羽柴土佐守)・戸田勝隆(民部少輔)・生駒親正(雅楽頭)らは、いずれも巨済島(唐島)での在番を命じられた面々である。三成と大谷吉継は釜山にあって、彼らに兵粮米や在番に必要な諸物資の配当を行なっている。こうして、朝鮮半島南岸の要害(『倭城』)に拠って在番を継続する諸将に対する手当を終えた三成は、帰還する最後の組に編成されて日本への帰途につく」と。
 中野氏の「文禄・慶長の役」(吉川弘文館)には、「朝鮮半島半島からの軍勢帰還計画」(『山崎家文書』)の表が載っていますが、一番から四番あるうちの、三成は四番であり、人数は1640人であり、中川秀成・大谷吉継・増田長盛・早川長政などと同じ隊でした。四番隊は1万5千人余り、全体としては5万人近くでした。
 三成が秀吉に代わって朝鮮半島に渡ったのは、前年の6月6日のことであり、現地での日本軍の悲惨な状況を見て、このまま戦争を続けるのは無理だと判断し、碧蹄館の戦いを勝利に導くものの、行長らと共に講和を整えようとして、明使を伴って名護屋に着いたのは5月13日。しかし、5月24日には再び名護屋を発って朝鮮半島に戻り、晋州城攻撃に加わり陥落させてからは、南岸の倭城の普請を統括し、在番体制を整えて、諸将の帰還を見届けてようやく9月23日に名護屋に戻ってくるわけです。朝鮮半島での滞在は1年数ヶ月に及びました。
 三成は朝鮮半島にあっても、息つく暇もなかったと思われますが、それは朝鮮へ行く前も帰ってからも変わることなく、今で云う企業戦士並みの忙しさでした。三成がゆっくりできたのは、皮肉なことに、秀吉の死の翌年、七将による三成襲撃事件の責任を取らされて、佐和山に隠居してからでしたが、その翌年の7月には反家康の兵を挙げますから、1年余りの休息に過ぎず、しかも三ヶ月もしないうちに処刑されてしまいます。まさに豊臣政権のために手となり足となって尽くした人物でした。
 中野氏の同書には、「主君三成が日本に戻ったのちも、一部の石田家中は在番の諸将との連絡調整役として残留する」と記されています。
 朝鮮半島における在番の状況について、中野氏の「文禄・慶長の役」には、倭城の名と在番の主将が表として掲載されています(『豊公遺文』)が、13城に及びます。同書には、「この表によって、この段階で設けられた日本型城塞が、釜山(プサン)を中心として左右両翼に展開する様子が明らかになる」と記されています。このうち、オンライン三成会の人々と訪ねた城は、西生浦城(在番の主将は加藤清正)、機張城(黒田長政)、亀浦城(小早川隆景 立花宗茂 小早川秀包)、熊川城(小西行長 宗義智 松浦鎮信ら西肥前勢)です。
 
 

この記事へのコメント

2018年01月14日 21:51
毎回、唐突で申し訳ありませんが順天へは行かれましたか?
今一番興味がある所です。胸が痛みますが…
2018年01月16日 00:30
tokebiさん
残念ながら、順天倭城へは行っていません。行きたい倭城はいろいろあり、昨年も韓国へ行く話もありましたが、朝鮮半島情勢がややこしいので、断念しました。今年も、こういう状況では無理かもしれません。それにしても、慶長の役の戦いは悲惨でしたね。

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