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zoom RSS 三成の実像2340 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」30 谷徹也氏「総論」30 所領の変遷5

<<   作成日時 : 2018/07/23 10:20   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「領主・代官としての石田三成」の中で、時期ごとに分けて三成の所領と代官所(蔵入地)について、今までの議論も踏まえて論じられていますが、その続きです。
 D「その他」として、次のようなことが記されています。
 「天正12年段階で三成は河内にも所領を有しており、秀吉死後には慶長4年正月から10月にかけて越前府中の代官支配を浅野長政と共に行っている。このように、三成は所領替に際して一時的に収公された蔵入地などの管理に携わる機会が多かったと考えられる。例えば天正17年4月には摂津国浜田村からの訴訟に単独で対応しているが、これは三成が浜田村周辺の領主か代官であったためかもしれない」と。
 このうち、「天正12年段階で三成は河内にも所領を有して」いたという点については、谷氏の同書の、兄の正澄に関して述べられている中に、次のようなことが記されています。
 「三成と正澄は天正12年11月段階で河内国交野郡春日に二百石を有しており、正澄は同郡私部村で1017石余りの蔵入地を預かっていた。河内国は当時、小禄家臣の給地の源泉となっており、正澄は給人知行地として分与する以前における代官支配を任されていた可能性が高い」と。
 この頃の三成の行動としては、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)の中で、次のようなことが記されています。
 「11月27日の日付をもつ『江州蒲生郡今在家村検地帳』がのこっており、これに先だって蒲生郡内の検地に関わっていた可能性が高い」と。
 また「秀吉死後には慶長4年正月から10月にかけて越前府中の代官支配を浅野長政と共に行っている」という記述に関して、中野氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中でも、「越前府中の代官支配」について取り上げられていますが、「三成は佐和山への退隠を余儀なくされるので、三成の越前府内領への関与は数ヶ月間のことと考えられる」と指摘されています。三成が七将による石田三成襲撃事件の責任を取らされて奉行職を解かれて佐和山に隠居するのは閏3月のことですから、それに伴い、越前府内領の代官支配は終わったものと思われます。
 この代官支配について、中野氏の同書で、次のように解説されています。
 「元来、越前府中領は青木一矩【かずのり】(羽柴紀伊守)の領知であったが、小早川秀秋が筑前・北筑後へ復領するのに伴い、青木一矩が府中から北之庄へ転封となる。こうして越前府中領が政権の直轄地となり、ここを三成と浅野長政とが代官として支配することとなったのである」と。

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