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zoom RSS 三成の実像2345 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」35 「総論」35 安宅秀安

<<   作成日時 : 2018/07/28 11:00   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「領主・代官としての石田三成」の中で、家臣団の活動について述べられています。
 まず「研究史上でよく取り上げられるのは安宅秀安」と指摘され、「安宅は島津氏・相良氏との交渉に携わった三成の重臣であり、中野氏は彼の官途名や裁量の拡大を例にとって、文禄期以降の三成家中の権力強化と地位向上を考察している」と記されています。
 この点については、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、次のように記されています。
 「安宅秀安は、(文禄2年)8月16日付の義弘・久保(ひさやす)充ての書状で、三成が帰国後すみやかに上洛して秀吉に義久隠居の件を言上するので、三成の上洛から20日程度経たのちに島津家の使者を上方へ派遣するように指示している。秀吉の意を受けて島津家との交渉にあたるのは、三成の職責ではある。しかし、所詮は陪臣にすぎない安宅秀安のような人物が、ここまで枢機に関わるようになったことは注目すべきであろう」と。
 三成が実際、朝鮮半島から帰国するのは9月23日のことですが、中野氏の同書でも記されているように、島津家の嗣子に決まっていた久保が9月8日に急逝し、義久の隠居も亡くなり、後継者問題が浮上し、島津家の取次を務める三成にとって大きな問題になってきます。
 また中野氏の同書で、安宅について次のようなことも記されています。
 「三成が政権のなかでの立場を高め、余人をもって代え難い存在になるのと並行して、本来は陪臣であるはずの石田三成の家中が、従前にもましてその政治的比重を高めていくことになる。(中略)安宅秀安は文禄5年の後半に、名を『三郎兵衛尉』から受領名の『三河守』に変えたようであり、島津家や相良家に発する指示は、この前後から単に三成の命を伝達するだけでなく、彼自身の裁量が大きく加わるように見受けられる。(中略)
 安宅秀安は、島津領内に設けられた三成の領地の代官としての差配も委ねられており、従来は三成自身がおこなっていた役割も、徐々に秀安に委譲されていった。すこし時間がさかのぼるが、文禄4年(1595)に比定される2月25日付の相良頼房充て書状に、秀安は『上様へ漆御進上ニ付而、則被成 御朱印候事』と記しており、大名から秀吉への進上品の取次なども所管しているようである。重要な案件は三成の処理にかかるとしても、安宅秀安は島津家と豊臣政権中枢を結ぶ重要な、そしておそらくは実質的に唯一のパイプとして機能することになる」と。
 また「本来は陪臣である存在の台頭は、三成と諸大名との関係に微妙な影響を与えつつあることも看過できない」ことも指摘されていますが、この点は大きな問題を含んでいますので、今後の重要な検討課題だと思われます。

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