関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2347 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」37 「総論」37 嶋左近1

<<   作成日時 : 2018/07/30 11:07   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「領主・代官としての石田三成」の中で、家臣団の活動について述べられていますが、嶋左近の実像についても論じられています。
 谷氏の同書では、筒井家に仕えた嶋左近と、石田家に仕えた嶋左近とは別人であり、代替わりして親子の可能性が高いという坂本雅央氏の見解については、言及されていません。
 谷氏の同書で、現在知られている嶋左近に関する史料について、いろいろと挙げられています。
 「まず、春日大社の本殿南門の右側に現存する燈篭には、天正5年4月22日付で『春日社奉寄進嶋左近丞寄進清興』と刻印されてい」て、「左近の名前が大和国内で見られる現状では最初の史料である」と記されています。
 この出典は太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)ですが、坂本氏の見解では、「清興
」とは読めないとされています。坂本氏は、天正13年(1585)、豊臣秀長が郡山城に入城した頃に、筒井順慶に仕えた先代左近は亡くなり、後を継いだ息子の左近清興が三成に仕えたと主張されています。
 谷氏の同書では、「『多聞院日記』に多くの左近の記事が見られる」と記され、「天正11年後5月に伊賀で筒井氏の陣所に夜討ちがかけられ、嶋左近ら筒井家中が負傷している。よって、この段階では筒井氏に属していたことが確実である。また、同12年10月、筒井順慶の葬儀が営まれた際、葬送行列の『五番』に『嶋左近殿』が見える。この史料が確かなものであるとすれば、筒井家中でそれなりの地位にあったといえる」と指摘されています。
 坂本氏の見解によれば、このあたりの左近は先代であり、三成に仕えた左近の親であったことになります。
 さらに谷氏の同書では、「『多聞院日記』同18年5月の記事では『嶋左近ノ内方』(妻のおちゃちゃ)が伊勢亀山にいることから、これ以前には蒲生氏郷の与力である亀山城主の関豊盛(一政)の許に身を寄せていた可能性がある。『左近陳(陣)立』とあるため、小田原攻めに従ったと思われるが、この時は三成の配下に入っていたものと思われる」と指摘されています。
 「多聞院日記」にある「亀山」という地名について、坂本氏は、「伊勢亀山」ではなく、「丹波亀山」であるとの見解が示されています。左近の妻の父親は北庵法印ですが、亀山に行く父の身の廻りの世話をするためにわさわざ娘が南都(奈良)にやってきたのであって、左近夫妻が亀山に住んでいた論拠にはなりえないということも、坂本氏は指摘されています。
 

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