関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2348 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」38 「総論」38 嶋左近2

<<   作成日時 : 2018/07/31 10:54   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「領主・代官としての石田三成」の中で、嶋左近の実像についても論じられていますが、その続きです。
 左近が小田原攻めの際、三成の配下に入っていたことを示すものとして、天正18年5月付の佐竹(東)義久宛ての三成書状が挙げられていますが、その末尾「猶使者嶋左近申含候」の記述から「東国への使者として活動している」ことを示すものだと指摘されています。
 この書状については、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)にも掲載されており、次のように解説されています。
 「翌日(26日)の秀吉への拝謁をひかえ、義宣からの進物などについて、三成は細かな配慮をみせている。しかしながら、書状の眼目は、若年の義宣を当主とする佐竹家を、義久がこれからも支え続けて行くべきである、との助言であろう。当主義宣の秀吉への初めての拝謁を翌日にひかえ、東義久の目にも側近三成の存在は頼もしく映ったことであろう。実際、政権への服属後も、佐竹家は旧に倍して三成への依存を強めていく。また、この書状から、三成が義宣の陣営に、嶋左近清興を使者として派遣したことがわかる」と。
 佐竹義宣と三成の親しい関係は、このあたりから始まっています。後年、七将による石田三成襲撃事件が起こった時、義宣は三成を救うのに尽力したと云われています。しかし、関ヶ原の戦いの際には、佐竹家は内部が統一されていなかったため、三成ら豊臣公儀側に兵を送りませんでした。関東で佐竹家が動いていたら、また情勢は大きく変わっていたかもしれません。
 また、近年発見された二通の同年7月付の左近書状についても谷氏の同書で言及されていますが、この書状については拙ブログ記事でも取り上げたことがあります。その書状について、谷氏の同書では、次のように解説されています。
 「内容は佐竹家臣の小貫頼久宛てのものが常陸の豪族である大掾氏が人質の女房衆を上京させるこを渋り、佐竹氏に取り成しを依頼したものであり、佐竹義久宛てのものが秀吉出御や陣替の予定について伝え、指出と兵粮米の進捗状況を尋ねたものである。いずれも左近が大名との交渉に関わっていたことを示す貴重な史料というよう」と。
 嶋左近は猛将のイメージが強いですが、大名との交渉にも関わっていたわけで、また大和国の検地にも携わっています。谷氏の同書では、「近年に発見された三成書状では、佐和山領における年貢率を左近ら3名が決定するように命じたことが記されており、領内統治にも携わっていたことが判明する」と記されていますが、この書状についても、拙ブログで取り上げたことがあります。
 
 

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