関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2349 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」39 「総論」39 嶋左近3

<<   作成日時 : 2018/08/01 00:01   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「領主・代官としての石田三成」の中で、嶋左近の実像についても論じられていますが、その続きです。
 「『多聞院日記』同(天正)20年10月には、『嶋左近清興高麗陣立、無異儀帰国ノ様』に立願がなされている。三成は同年2月に出陣しているので、後発隊として呼び出されたと考えられ、文禄2年閏9月に三成と共に帰陣している。なお、同年7月には『嶋左近殿ノ内方』が佐和山へ帰る記事があり、佐和山城下に左近の屋敷があったことがわかる。文禄5年2月には『嶋左近煩得験』とあり、病気にかかっていたが、治ったようである」と。
 文禄の役の際の嶋左近の活躍については、史料に残っていませんが、碧蹄館の戦い、幸州山城の戦い、晋州城の戦いに従軍したと思われます。幸州山城の戦いでは、三成も負傷していますから、激しい戦いであり、左近も苦戦したのではないでしょうか。
 左近の屋敷は、佐和山の西麓、現在の清凉寺が建つあたりにあったと思われます。
 左近は関ヶ原の戦いで亡くなったかどうか不明とされ、生き残ったという説もあります。谷氏の同書には、「関ヶ原の戦い後には、家康家臣らが松平家乗に宛てた書状で、徳川方が討ち取った『大将分』として、『嶋左近』の名が見える。大名クラスと並列して記されていることから、関ヶ原において左近が重要な役割を果たしていたことが確認できる」と記されています。
 嶋左近が関ヶ原の戦いで亡くなったということは、坂本雅央氏の「平群谷の驍将 嶋左近」(平群史蹟を守る会)にも記されています。すなわち、「戸川家譜」には、「戸川勢は加藤嘉明の先手となり、小早川秀秋の裏切りの後に三成の陣所へ攻め寄せた。その時、三成勢の6、70騎が柵を破って出撃してきたのでこれを押し包み、一人残らず討ち取った。この時出撃してきた大将が島左近という説がある」と記されていること、「戸川記」にも「戸川家譜」とほぼ同一内容の記述があること、「左近の着用と伝えられる五十二間筋兜が静岡市の久能山東照宮博物館に、また兜の『忍びの緒』が岡山県早島町の戸川家記念館にそれぞれ現存するが、これらは戸川肥後守達安が左近を討ち取った際に得たと伝えられるものだった」ことが根拠として挙げられています。
 昨年上映された映画「関ヶ原」では、平岳大さん演じる左近が仲間と共に、壮絶な爆死を遂げていましたが、それでは誰が誰だかわからなくなったでしょうから、実際には、そういうことはなかったと思われます。
 左近の生存説については、坂本氏の同書の中で、「対馬島山・奈良伴墓(ともばか)・京都立本寺教法院・陸前高田浄土寺などの各地に残る墓にも左近のものと断定できる確証はなく、やはり現時点では関ヶ原にて散ったとするのが妥当であろう」と指摘されています。
 

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