関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2360 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」50 「総論」50 五大老五奉行制の成立2

<<   作成日時 : 2018/08/12 10:43   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、「五大老」「五奉行」についての考察がされていますが、次のように記されています。
 「『五大老』『五奉行』については、秀吉の遺言では『五人のしゆ』『五人の物』としか記されておらず、当時の呼称ではなかった。かつて阿部勝則氏は、当時の史料では『五大老』が『奉行』、『五奉行』が『年寄』と呼ばれていたと推測した。それに対し、堀越祐一は、豊臣政権の吏僚や毛利輝元らは『五大老』を『奉行』、『五奉行』を『年寄』と呼び、徳川家康とその与党は『五大老』を『年寄』、『五奉行』を『奉行』と呼んでいたことを明らかにした。堀越氏は、三成らによる『年寄』の自称には、従来の奉行人的位置づけから脱却しようとする狙いがあったと推測している。よって、学術用語として従来通り『五大老』『五奉行』を用い、個々の史料解釈の際には書き手の立ち位置を考慮するのが適切であろう」と。
 「五大老」「五奉行」という呼び名について、堀越祐一氏の「豊臣五大老の実像」(山本博文氏・堀新氏・曽根勇二氏編『豊臣政権の正体』【柏書房】所載)の中で、すでに次のように指摘されています。
 「当時使われていなかったとはいえ、学術用語としてならそれらの呼称を用いてもいいのではないか、ただしカッコ付きで『五大老』『五奉行』とすべきとの見解を提示したことがあります。しかし、本書の性格上、煩雑なものはできるだけ避けたいとの考えから、ここでは単に五大老・五奉行と呼ぶことにしたいと思います」と。
 谷氏の同書では、「『五大老』の中では徳川家康と前田利家が特に重視されて」いるという渡辺世祐氏の見解が取り上げられ、「7月15日の遺物下賜の際の起請文の宛名になっている」と記されています。
 これに関して、「家康と利家が秀吉生前から『二大老』として活動しており、『五大老』制が成立した後にも制度内の制度として存続したと推測している」との跡部信氏の見解が取り上げられています。
 また宣教師の次のような見解が紹介されています。
 「秀吉が重視したのは家康であり、日本全土の統治権を家康に委ねて、秀頼成人の暁には政権を返すよう約束を交わした後、家康と同等の権威を有するものとして『五大老』を選び、彼らの力が大きくなり過ぎないために、実質的な統治者として『五奉行』を設定した」と。
 この点については、白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における五大老・五奉行に関する記載についての考察」(別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で詳しく論じられていますし、拙ブログでも取り上げました。

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