関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2350 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」40 「総論」40 嶋左近4

<<   作成日時 : 2018/08/02 10:38   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「領主・代官としての石田三成」の中で、嶋左近について、新たな史料も二点取り上げられていますが、そのうちの一点は次のように説明されています。
 「丹波国の柏原八幡神社(現在の丹波市柏原町)は、天正7年に戦乱によって焼失した際、秀吉が祈願所として再建した縁により、秀吉配下の諸将からも信仰を受けていた。文禄4年以前に寄進をした人々として、堀尾吉晴・羽柴於次秀勝・中嶋正次・矢嶋久兵衛・豊臣小吉秀勝・山口宗永に加え、『石田治部少輔殿・同内嶋左近殿』の名前が挙げられている。左近が三成家中でも相当の地位にあったことが窺われよう」と。
 このうち、「羽柴於次秀勝」は織田信長の四男であり、秀吉の養子になった人物ですが、秀吉の最初の子の名前が秀勝だったものの、幼くして亡くなったため、秀吉は信長の四男を「羽柴於次秀勝」と名付けたと云われています。しかし、その二代目秀勝も天正13年に亡くなってしまいます。三代目の秀勝である「豊臣小吉秀勝」は秀吉の姉のともの子ですが、やはり秀吉の養子になり、浅井三姉妹のうちの一人の江と結婚しました。
 もう一つの史料については、次のように説明されています。 
 「筒井氏に仕えて伏見屋敷に常駐していた喜多氏が残した収支や贈答の記録の中に、慶長3年6月に左近が家臣の下河原平大夫や田中右吉を遣わして、筒井定次に馬を進上したことが見える。三成に仕えてからも、旧主の筒井氏との関係は続いていたことが判明するとともに、逸話の中でしか知られていなかった下河原平大夫が左近の家臣として実在していたことも考えられる」と。
 坂本雅央氏の見解によれば、筒井氏に仕えていた左近と、石田家に仕えた左近とは別人であり、代替わりしていて親子の可能性が高かったことが指摘されているので、そうだとすると、筒井定次は旧主でなかったことになりますが、親が仕えていた筒井氏とは関係が良好だったことになります。
 下河原平大夫については、坂本氏の「平群谷の驍将 嶋左近」(平群史蹟の会)の中の「嶋左近関連人物列伝」に次のように説明されています。
 「『砕玉話』に左近の家臣としてその名が見られ、年来武功の士であったとされる。大和平群谷の在地土豪下河原氏の一族である可能性が考えられるが、いつから左近の家臣となったか等は記録に見えず、平大夫と同氏の関係は不明」と。

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