関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2373「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」63「総論」63 「北国之儀」と「東国の儀」

<<   作成日時 : 2018/08/25 11:00   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」ののことであるた・うち、「合戦における石田三成」の中で、家康暗殺を企てたとされる前田利家に対して、「加賀征討」が組織されたという捉え方への大西泰正氏の反論が取り上げられています。
 すなわち、「当時の一次史料を確認する限りでは、前田利長に対する征討軍が組織された形跡は存在せず、『北国之儀』と記されるのみである」と。
 カンハンの「看羊録」及び日本側の史料の記述から、三成や大谷吉継が前田利長の上洛に備えるため出兵させたのは確かですが、あくまでそれは前田家を牽制するためであり、征討軍というものではありませんでした。もし、征討軍という位置づけなら、三成も兵を出すのを渋ったのではないでしょうか。家康が秀頼の名を借りて、征討軍を組織するのを懸念していたと思われるからで、それは家康が会津征討軍を組織した時に、家康に対して挙兵したことからもうかがえます。
 「北国之儀」について、谷氏の同書には、「慶長4年9月の家康大坂入城の結果、前田利長と加藤清正の上洛が禁止され、路次に兵が派遣された」と記されていますが、吉継も三成もその兵を派遣しているわけです。
 その後の経緯について、次のように記されています。
 「利長は家康に対して敵意のない事を示し、一旦は鎮まったものの、翌年になっても和議が成立せず、在京中の大名の下国が延引するなど、長期化の様子を見せた。慶長5年4月下旬に至ってようやく『北国之義相済申』と徳川秀忠が述べており、利長の母芳春院と家老4名(横山長知・前田長種・山崎長徳・太田長知)の証人が江戸に赴くことで事態は終息した」と。
 家康が芳春院らを大坂ではなく、江戸で人質に取ったことに、意図を感じますし、前田家が徳川に反抗できなくなりました。後に幕府を開いた時の人質作戦の第一号になりました。 
その後に起こる「会津征討」に関しても、水野伍貴氏の次のような指摘が谷氏の同書で紹介されています。
 すなわち、「対上杉景勝に関しては、当初『東国之儀』と記されていたものが、交渉が決裂してから『会津表出馬』という表現に変化している」と。
 これらのことから、「緊張状態を指す『北国・東国之儀』と、軍事行動を指す『会津攻め』という形で分けて叙述するのが適切であろう」と谷氏の同書で述べられています。
 状況に応じて、厳密に区別する必要性を感じます。
 

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