関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2352「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」42 「総論」42 八十嶋助左衛門尉2

<<   作成日時 : 2018/08/04 11:05   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「領主・代官としての石田三成」の中で、三成家臣の八十嶋助左衛門尉についても取り上げられていますが、その続きです。
 八十嶋について、次のように解説されています。
 「瀬田掃部が『当国八十嶋助左衛門』と言っていることから、近江の出身である可能性が高く、その縁で三成に仕えたのであろう。また、三成の筑前下向に同伴した家臣の中では最上席であったとも推測されており、島津氏や佐竹氏などの大名たちと三成をつなぐ窓口としての活動が目立つ。とりわけ島津家中とは多くの書状を遣り取りしており、関ヶ原の戦いで島津氏に出陣を要請して断られた逸話も想起されよう」と。
 このうち、「瀬田掃部が『当国八十嶋助左衛門』と言っていること」は、年不詳の9月7日付の瀬田掃部書状が出典であることが谷氏の同書の【註】で示されています。また「三成の筑前下向に同伴した家臣の中では最上席であったとも推測されて」いるとあるのは、中野等氏の見解であり、中野氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で指摘されていますが、その根拠として次のようなことが挙げられています。
 「(慶長3年)11月23日付の三成書状には、翌24日付の家中の八十島助左衛門尉書状が添えられていること」、「博多津中とのやりとりも、八十島助左衛門尉を通じたものであったこと」が挙げられています。
 三成のこの時の筑前下向は、秀吉の死に伴って、朝鮮半島からの撤兵を差配するためのもので、この三成書状は島津家に宛てたものですが、中野氏の同書によれば、次のような「具体的かつ事細やかに指示している」内容です。
 「蔵入地代官を任された家臣が規定水準の物成(ものなり)を収められない場合は、知行地の差し押さえといった強行手段に訴えるべきことや、京都借銀の弁済方法、さらに薩隅に設定された秀吉の蔵入地から百姓が頻々と逃散している事態をうけ、島津領内での人身売買を厳しく取り締まることなど」と。
 もっとも、三成はこの書状の中で、島津氏に「気遣いを見せている」ことも指摘されています。
 すなわち、「島津勢が本来10月10日、11日頃に朝鮮を発する予定であったが、順天城にいた小西行長らが襲われ、その救援に向かったため帰還が遅れている事情も記されて」いると。
 八十嶋が関ヶ原の戦いの際、島津氏に出陣を要請して断られたことについては、島津家の史料である「山田晏斎覚書」に出てきますから、事実と思われます。
 
 

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