関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2353 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」43 「総論」43 八十嶋助左衛門尉3

<<   作成日時 : 2018/08/05 10:58   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「領主・代官としての石田三成」の中で、三成家臣の八十嶋助左衛門尉の関ヶ原の戦いの後の事績についても述べられています。
 「藤堂高虎に仕えており、『八十嶋助左衛門入道道除』として伊達政宗や金地院崇伝と音信しているのが確認できる。藤堂家での知行は五百石で、祐筆として活躍して寛永元年に死去したとされる。能書家で古往来の今川状や常途往来などの筆者として知られるだけでなく、俳諧や御伽の席にも名を連ねており、文人として余生を過ごした」と。
 関ヶ原後の八十嶋については知りませんでした。安藤英男氏・斎藤司氏の「石田三成家臣団事典」(安藤氏編『
石田三成のすべて』【新人物往来社】所載)には、八十嶋の関ヶ原後については何も書かれていません。その代わり、関ヶ原の戦いの際の、次のような八十嶋の滑稽な姿が紹介されています。
 「彼は臆病者であって、味方の旗色が悪くなると、ただ一騎、本陣より駆け出した。味方は、彼が何をするかと見てあれば、一鞭あてて逃げ失せたのである。一同、愛想がつき、失笑したという」と。
 出典は軍記物の「関原軍記大成」ですから、どこまで信憑性があるかわかりませんし、関ヶ原後に藤堂高虎に仕えていることからすれば、作り事のような気がします。
 谷氏の同書に、慶長3年と比定される5月3日付の八十嶋宛の柏原彦右衛門尉・黒川右近・渡辺采女連署状が取り上げられていますが、柏原について、次のように解説されています。
 「近江(もしくは摂津)の出身と思われ、八十嶋と連署で島津家中に書状を送るなど、大名との交渉にも名が見える。三成が所司代になると、主に上方にあってその職務を代行した。柏原は関ヶ原の戦いで戦死したと思われ、一族の柏原平左衛門・太郎左衛門は加藤清正に従い、貿易商として活躍した」と。
 柏原についても、「石田三成家臣団事典」に記載がありますが、関ヶ原の戦いの前哨戦で亡くなったことになっています。
 すなわち、「8月21日(慶長5年)、東軍の先鋒・福島正則らが来攻するや、木曾川の上流なる新加納・米野の間で要撃したが、敗れて瑞竜寺の砦に退いた。翌22日、再び東軍が襲い来るや、数百の寡兵を率いて、しばしば撃退したけれど、遂に敵せず、(岐阜城の)搦手から破られて、本丸の陥るとき自刃した(『関原軍記大成』)。一説には、寄せ手の佐々忠右衛門が家の子・杉浦源之丞なる者と渡りあい、切り結んで討死した(『石田軍記』)」と。
 また黒川右近については、谷氏の同書では「相良氏との遣り取りが確認でき、文禄4年には肥後検地に関与している」と記されています。「石田三成家臣団事典」には、島津領検地において「猪子弥平次、雨森勘左衛門らと、薩摩国を担当した(『島津家文書』)」「また、文禄4年正月9日、相良氏へ書状を送っている」と記されています。

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