関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2357 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」47 「総論」47 朝鮮出兵

<<   作成日時 : 2018/08/09 10:23   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、朝鮮出兵について、三成は天正20年2月20日に出陣し、「翌月には名護屋に入り、しばらくは『船奉行』として輸送船の廻送に携わ」り、「6月6日に朝鮮へと渡海する」と記されていますが、その前月に出した加賀利家(加賀宰相)宛ての長束正家・増田長盛・大谷吉継・石田三成連署状が史料として取り上げられています。
 この史料は中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で取り上げられていることが、谷氏の同書に記されていますが、「中野氏は文禄3年の発給とする」ものの、「前田利家が宰相(参議)であった天正18年から文禄2年のものであり、長束・増田・大谷と三成の居所が一致する時期を考えると、天正20年の発給である可能性が高く、長束の花押型とも齟齬しない。おそらくは名護屋に在陣中の諸将の間で竹が必要とされたいたものの、勝手な伐採を禁止するためにかかる命令を下したのであろう」と指摘されています。
 この連署状について、中野氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、「諸大名に命じて竹木の伐採を命じている」「おそらく伏見城の作事に関わる用材を確保するためであろう。その翌日の5月7日には、讃岐の生駒親正(雅楽頭、実名は他に『近正』『近規』などを名乗る)に対して、伏見城向嶋橋の用材拠出を命じている」と説明されています。
 要するに、竹の用途について、中野氏の見解では伏見城、谷氏の見解では、名護屋城とされているわけですが、谷氏の天正20年説の方が、根拠として妥当性があるように思えます。
 ちなみに、5月7日付の生駒親正宛ての連署状について、中野氏の見解ではこれも文禄3年のものと比定されていますが、谷氏編の「石田三成発給文書目録稿」(「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」所載)では、文禄5年に比定されています。このあたりの根拠はよくわかりませんが。
 朝鮮半島に渡った三成の動向について、谷氏の同書では、中野氏の見解をもとに、「三成は天正20年7月16日に漢城(京城)に到着し、以後は同地で『都三奉行』として秀吉と諸将を繋ぐ役割を果たす」と記され、あまり知られていないこの時期の三奉行連署状が史料として挙げられています。
 その連署状について、「漢城に一時的に立ち寄った武将に対して、面会できなかったことを悔やんでいる様子がうかがえる」と解説されています。
 谷氏の同書には、翌年に起こった碧蹄館の戦い、幸州山城の戦いにおける三成については残念ながら触れられていません。  
 

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