関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2380「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」70「総論」70 関ヶ原開戦3

<<   作成日時 : 2018/09/01 10:46   >>

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  谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」のうち、「合戦における石田三成」の中で、「白峰氏は慶長5年8月に三成が正式に政権復帰を果たしたとするが、中野氏は若干早く、7月末段階で奉行に復帰していたと推測している」と記されています。
 白峰氏の見解については、「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』)の中で、8月1日付で三成も含めた二大老・四奉行連署状が初めて出されている点が証左として挙げられています。
 中野氏の見解については、「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、7月29日付の真田昌幸宛ての宇喜多秀家書状の中に、「なお、委細については、石田三成(石治少)から申し入れます」と記され、宇喜多と同じく伏見攻撃に当たっている三成が副状を発していること、同日付で毛利輝元が発した書状の副状を大坂の三奉行が発していることから、「この時点で三成は、『三奉行』と同様の職権を得ていると見なされ、三成が豊臣家の奉行に復職していたと考えざるを得ない」と指摘されています。
 正式にこの時期に、三成が奉行職に復帰したのは確かだとしても、7月17日付で「内府ちがいの条々」が出された時には、三成はその案文の作成に大きく関わっていたものと私は見ています。これだけ家康の違反項目を列挙してあげつらうことは三成でなければできない気がします。
この点について、以前に拙ブログでも取り上げたことですが、桐野作人氏の講演会「謎解き 関ヶ原合戦」の中で、「内府ちがいの条々」と、「歴代古案」に記載されている、ほぼ同内容の「石田三成・増田長盛連署条目」の文言が比較され、後者がより激烈であり、家康に対する敬称も使われていないことから、三奉行は三成が示した原案の文言を和らげて、「内府ちがいの条々」として出されたのではないかと推測されていました。
 伏見城攻め前後の三成の動向について、谷氏の同書には、次のようなことが記されています。
 「8月1日には松平家忠・鳥居元忠らが籠った伏見城を攻や落とすが、伏見城攻めに際して三成は京中に家並課役をかけ、土俵を三つずつ出すよう触れたとされる。三成は佐和山引退後に所司代を辞したと考えられるが、以前に所司代であったことからこのような命令を下したのであろう」と。
 三成が増田長盛と共に京都所司代に任命されたのは文禄4年、秀次事件後のことであり、その根拠として、中野氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)の中で、その根拠として、8月16日付の三成家臣の安宅秀安書状が挙げられています。二十六聖人殉教の際、犠牲者の数をなるべく減らそうとして三成は尽力しましたが、京都所司代の職にあったからこそできたことでした。

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