関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2402 谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」9 関ヶ原の戦いの再検討・三成祭でも講演

<<   作成日時 : 2018/09/23 10:52   >>

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 8月11日に米原市の大原観音寺で行われた、谷徹也氏の講演「石田三成の虚像と実像」の「第四章 関ヶ原への道」の中で、関ヶ原の戦いの再検討ということで、最近の新しい見解についても触れられていました。
 すなわち、家康との対決に積極的だったのはむしろ毛利輝元や宇喜多秀家であったとする見方、当時の史料に出てくる戦闘の中心は「山中」であり、「山中合戦」と呼ぶのが正しいのではないかとする見解、小早川秀秋は開戦直後に裏切ったという見解など。
 谷氏の同書に記されているように、最初の見方は水野伍貴氏によって示されているものであり、後の二つの見解は白峰旬氏によって示されています。
 白峰氏の見解は、拙ブログでもたびたび取り上げてきましたが、水野氏のこういう見解についての具体的内容は残念ながらまだ把握していません。毛利輝元が積極的だったことについては、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)の中で、すでに詳述されています。もっとも、その矛先は、東に向かうことではなく、西国での勢力拡大に積極的だったわけですが。
 宇喜多秀家が積極的だというのは、かねて白川亨氏が唱えられていました。北政所の要請を受けて秀家が家康に対する挙兵を決意し、7月5日の豊国社参詣は家康に対する戦勝祈願だったというものです。これに対し、大西泰正氏は、豊国社参拝は会津攻めの戦勝祈願であり、秀家が三成に対して同心したのは7月12日頃だと指摘されています。秀家が実際、家康との対決に積極的だったのかどうかは、今後、新たな史料の発掘も含めて細かく見ていく必要があります。
 講演会では、「おわり」と題して、三成研究の可能性について言及されていました。まだまだ三成関連の史料が存在しており、実像と虚像の関係に注意して分析すれば、豊かな成果が期待できると述べられていました。
先日、石田三成公事績顕彰会から11月4日に長浜市石田町で行われる三成祭の案内が届きましたが、午後の講演会は谷氏の「石田三成の人物像ー書・刀・茶ー」(近年発掘調査が進んでいる佐和山城の最新成果発表)であることが記されていました。8月の講演会では、刀や佐和山城の発掘調査の成果についての話はなかったので、どんな話をされるのか大いに興味関心があります。
 三成の刀としては、三成が佐和山城に引退する時、その警備をして瀬田まで送ってくれた結城秀康(家康の次男)にお礼として贈ったとされる正宗と、三成が関ヶ原の戦いで敗れて古橋で捕まった時、自分を手厚くもてなしてくれた旧知の田中吉政に、形見として与えた脇差の貞宗が有名で、両方の刀とも現存しています。

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