関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2388「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」78「総論」78 使僧の活用1 寺内織部1

<<   作成日時 : 2018/09/09 10:27   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の「総論 石田三成論」の「おわり」に、江戸時代以降現代に至る三成の語られ方について触れられていますが、その続きです。
 江戸時代には、「三成との関係を禁忌とする考え方が常に支配的だったわけでない」例として、昨日付のブログでも触れた真田家に残る三成書状に関する原田和彦氏の見解の他、三成が領内に出した村掟についても、次のような指摘がされています。
 「近江国内に出された石田三成条々についても、彦根市域においては伝存しなかったものの、三成の遺領を継いだ井伊氏が出した村落統治法にその一部が踏襲されている」と。
 この見解の出典は、「新修彦根市史」第二巻であることが【註に】記されています。
 谷氏の同書には、「史料の伝存状況を悲観することなく、地道な関係史料の掘り起こしを積み重ねることが肝要なのである」と指摘されていますが、確かにその通りだと思いますし、今後の史料の発掘、研究成果に期待したいと思います。
 谷氏の同書を遡りますが、「豊臣政権の三成」の中で、「使僧の活用」と題して、その実態が考察されています。三成が賤ケ岳の戦いに称名寺の僧を使って諜報活動をしたことは有名ですが、その他にもいろいろな例が挙げられています。
 まず「天正17年に三成が芦名氏と音信を行う中で、『寺田織部』や『徳芳』(『徳子』とあるのは『徳芳』の誤り)・『潜斎』・『素休』といった人物が交渉を担当して」いるという点について、「彼らを石田家中かそれに準じる性格を有する使僧のような存在と推測している」との中野氏の見解は「妥当だ」としながらも、「『寺田織部』は寺内織部の誤りであり、『素休』と同一人物と思われる」と指摘されています。
 その上で、寺内織部の履歴が述べられていますが、彼の存在は私は知らず、いろいろと学ぶところが少なくありませんでした。まず次のように記されています。
 「寺内織部は元々、本願寺に仕えていた。本願寺の分裂にあたって寺内氏は、相模守・若狭守が准如方、織部素休とその子伯耆守(新左衛門・順世)が教如方として行動していた。天正8年閏3月、顕如は信長との和睦を受諾したが、教如はそれを拒否して徹底抗戦の構えを見せた」と。
 後に准如は本願寺(西本願寺)、教如は東本願寺を建て、分裂しますが、太田浩司氏は、その端緒は信長に対する姿勢の違いにあったという見解を示されています。顕如、その子の准如は和睦派、教如は抗戦派でした。
 

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