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zoom RSS 三成の実像2410 「英雄たちの選択 大谷吉継」5 吉継が作戦を考えた?

<<   作成日時 : 2018/10/01 10:18   >>

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 番組「英雄たちの選択 大谷吉継 関ヶ原もう一つのシナリオ」で、三成が家康に対して挙兵することを吉継に打ち明け、吉継がそれに同意した時、家康との圧倒的な兵力差を解決するために、大老の毛利輝元・宇喜多秀家、長宗我部などを味方にすることを考え、総大将を人望のない三成ではなく、毛利輝元にすることを提案し、三成もそれに同意したと説明されていました。この出典は「落穂集」であり、一次史料ではありません。さらに、挙兵を決めた翌日二人が各地の大名に家康打倒の檄文を送ったと伝わるとも述べられていましたが、そういう檄文は現存していません。
 吉継が三成に本当にそういう提案をしたのか、怪しいと私は思っています。三成自身、総大将を輝元にしようとはかねてから思っていたはずですし、その関係は前年の七将による三成襲撃事件の際に遡り、輝元は三成と結んで七将や家康に対抗しようとしていましたから、それは自然の流れでした。それを三成に人望がないからなどと言うのは、意図的なものを感じます。
 番組では、その後の作戦も吉継が考えたものだと説明されていました。その作戦とは、輝元を大坂城に呼んで大将にあおぎ、軍を北国、美濃、伊勢方面に分けて進出し、尾張あたりで家康方の軍勢を迎え撃つと。
 このあたりのことは、8月5日付の真田昌幸・信幸・信繁宛て三成書状やそれに添えられた「備之人数書」(軍勢の配置を書いたもの)に記されていることです。
 堺屋太一氏は三成が、大義名分を掲げ、象徴的な人物として輝元をかつぎ上げ、スポンサーとして宇喜多秀家を獲得したという見解を述べられています。
 三成一人が考え出したとまでは云えないかもしれませんが、あくまで吉継、安国寺恵瓊らと相談して考えたことでしょうし、輝元とは下工作ができていたのではないでしょうか。少なくとも、吉継が一人で考えたとするのは無理がある気がします。こういう形になったのは、江戸時代の吉継人気のせいではないでしょうか。嶋左近が、三成にしきりに暗殺を勧めたというのも、左近ならそういうことを考えかねないという、これもまた江戸時代の左近人気のなせるわざだという気がします。
 番組では、吉継や三成が考えた作戦は、家康と秀吉が戦った小牧・長久手の戦いのやり方を踏まえたものだという小和田哲男氏の見解が紹介されていました。小牧・長久手の戦いも尾張・美濃・伊勢が戦場となり、戦いは長期戦に及び、関ヶ原の戦いも長期戦になると見られていたと。確かに、関ヶ原の戦いが長期戦になるということは、武将たちの大半が考えていたことではないでしょうか。

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