関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2421 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口” 」6 家康本隊と遭遇

<<   作成日時 : 2018/10/12 10:05   >>

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 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、島津隊の退却の時に、島津軍は家康本隊と遭遇したものの、家康本隊は島津軍をやりすごし、その時に義弘は使者を家康に遣わせて、次のように口上を述べさせたと説明されていました。
 すなわち、「島津兵庫入道義弘、こたびはからずも御敵となり、戦い利あらずしてただ今御陣頭を過ぎて、本国薩摩へと帰り申す。わが心事についてはら後日に改めて言上つかまつるべし」と。
 番組では、家康の勝利が確定し、薩摩が生き延びるのは難しくなったが、義弘はひとまず家康に礼を尽くすことは、義弘のしたたかな計算だったかもしれないと説明されていました。
 この口上については、桐野作人氏の「関ヶ原 島津退き口」(学研新書)の中で取り上げられ、典拠が「新納忠元勲功記」であることが記されていますが、次のように解説されています。
 すなわち、「退き口の中途で、敵の総大将たる家康に挨拶する余裕があるのかという素朴な疑問はある。もしこのとおりだとするなら、やはり、合戦前、義弘が家康に親近感を抱いており、何も告げずに帰国するのは心苦しいと感じたともいえる。その一方で、これらの記録は後世に成立したものである。義弘は家康に敵対する意思はなかったとすることで、幕藩体制下で生き抜かねばならない島津氏のボタンのかけ違いを正当化する言説、いわば、島津史観が形成されたといえなくもない」と。
 私も桐野氏と同意見であり、緊迫した、一刻も早く退却しようとする状況の中で、使者を家康に差し向ける余裕はなかったのではないか、創作の疑いが濃いのではないかと思っています。
 家康本隊と島津軍の遭遇があったのは事実のようで、桐野氏の同書では、「山田晏斎覚書」の次のような記述が引用されています。
 「然るところに、内府様の備えがこちらに通ろうとする道筋に出てこられた。一大事に見えたけれども、どうやら沢山(佐和山)街道のほうにお通りなされたので、別条なかった」と。
 この記述について、「北国脇往還を南下する義弘主従と、中山道を佐和山方面に西進する家康本陣とが遭遇したのである」と桐野氏の同書で解説されています。
 もっとも、白峰旬氏や高橋陽介氏の説によれば、三成や宇喜多秀家、小西行長、島津義弘が布陣したのは山中ですから、義弘は北国脇往還を南下したわけではなく、山中に進んできた家康本隊と遭遇したことになります。

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