関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2422 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口” 」7 井伊直政が銃撃された場所

<<   作成日時 : 2018/10/13 10:48   >>

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 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、島津隊の伊勢街道を南下して退却する時のことは次のように説明されていました。
 家康の四天王の井伊直政や本多忠勝たちに追撃されたこと、その時に島津軍が繰り出した戦法は捨てがまりといわれるものだったこと、井伊直政は銃弾を右肩に受け落馬して重傷を負ったこと、島津軍も島津豊久が31歳で命を落としたこと、島津軍は多くの犠牲を出しながらも、二十キロほど伊勢街道を逃げ、午後七時ごろ駒野坂に到着したこと、この時の島津軍の兵は百にも満たなかったと云われていることなど。
 捨てがまりという戦法については、小和田泰経氏が、味方の軍勢を逃がすため、しんがりの兵だけが残って死ぬ覚悟で銃で敵と応戦するものだと説明されていました。
 この「捨てかまり」や「釣り野伏」というこの時に島津軍が使ったとされる戦法について、高橋陽介氏は「軍記物等に見られる『捨てかまり』・『釣り野伏』といった戦術を一次史料によって確認することはできない」と指摘されています。
 番組で取り上げられていたように、井伊直政が島津軍を追撃する途中に負傷したのは通説ですが、桐野作人氏の「関ヶ原 島津退き口」(学研新書)の中で、「直政は島津勢の陣所近くでその前面に立ちふさがったところを狙撃された」と指摘されています。その根拠として二つ挙げられていますが、一つは、島津方の筆者不詳の書上であり、次のような記述があります。
 「然る処に関東騎馬武者が大道に追い来たったのを惟新様がご覧なされて、大野正三郎に彼の武者を撃ってみよと仰せ付けられた。四匁玉の持筒(義弘直轄の鉄炮)で猪の毛やすりをすったのを下された。(大野は)右の鉄炮を頂戴して、備えの前に進み出て、右の武者二、三騎を射落とした。この時、井伊掃部(直政)殿も正三郎の鉄炮にお当たりになったと申された」と。
 この記述について、桐野氏の同書では、「西軍の敗走によって、先手の諸勢が競って追撃に移ったとき、直政も負けじと前進して島津勢の前を通過したところを銃撃されたと考えられる」と解説されています。
 もう一つは、やはり島津方の史料である「帖佐彦左衛門宗辰覚書」の記述であり、「ここでも、直政は義弘の本陣の前で狙撃されて落馬している。違うところは狙撃者が柏木源藤だとする点である」と解説されています。
 井伊直政が島津軍の陣の前で負傷したとするなら、そして白峰旬氏や高橋陽介氏の見解に従うならば、島津軍の陣が山中にあったということなので、直政が怪我して落馬したのは山中の地であったことになります。

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