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zoom RSS 三成の実像2424 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口” 」9 義弘の助命と本領安堵

<<   作成日時 : 2018/10/15 10:20   >>

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 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、関ヶ原の戦いの半年後、井伊直政が島津義弘に書状を送り、自分が島津家との和睦のために力を尽くすと述べていることが取り上げられていました。
 このことに関して、桐野作人は次のように解説されていました。
 直政は関ヶ原の戦いで負傷することによって、島津家の強さを身に染みてわかっており、島津と戦うのは危険だというたこと、南九州まで進軍するのは距離的に大変だし、上杉や毛利とも和睦ができていなかったので、まだ何が起こるかわからない状況だったことなどがあって、直政は和睦に乗り出したと。 
 上杉景勝が上洛するのは、慶長6年7月24日であり、毛利輝元は関ヶ原の戦いの後、剃髪し、慶長7年6月26日に伏見城の家康に対面しています。
 番組では、この結果、島津家が関ヶ原の戦いの前と変わらない本領を安堵されたと説明され、さらに桐野氏は島津家は義弘の助命を勝ち取り、家康が島津に折れたという形になり、島津の粘り勝ちだったこと、これによって島津氏は生き残り、江戸時代を通じて雄藩としてやっていける基礎ができたと解説されていました。
 義弘の助命については、桐野氏の同書で、次のように記されています。
 「慶長7年(1602)4月11日、家康は島津氏の和戦両様の巧みな構えに根負けして、ついに義弘の赦免を誓約した。その起請文には@薩摩・大隅・日向諸県郡の本領安堵、A忠恒の家督承認とともに、B『兵庫頭(義弘)儀は竜伯(義久)に等閑なく候間、異儀(議)あるまじく候』とあった。意訳すると、『義弘のことは(家康が)義久と懇意なので、(そのままで)異議はない』ということになる」と。
 この家康の起請文に関して、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「島津義弘」の章で次のように記しました。
 「慶長7年(1602)になって、島津家の家老の島津忠長が上洛し、本多正信と交渉の末、家康の起請文を出させることに成功する」と。
 しかし、その後、宇喜多秀家が島津家に匿っていたことが家康に知れます。このことに関して、「三成伝説」には次のように記しました。
 「家康が征夷大将軍に就く関係で、秀家の命は保証すると言ってきたために、島津家はこれ以上匿うと家康の存亡に関わると家の存亡に関わると判断し、秀家を家康に引き渡し、島津忠恒が上洛する形で、事の収拾がはかられた」と。
 
 

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