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zoom RSS 三成の実像2411「英雄たちの選択 大谷吉継」6 関ヶ原の戦いに至る経緯

<<   作成日時 : 2018/10/02 10:33   >>

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 番組「英雄たちの選択 大谷吉継 関ヶ原もう一つのシナリオ」で、関ヶ原の戦いに至るまでの経緯は次のように述べられていました。
 すなわち、8月14日に福島正則ら家康方の軍勢が清洲城に入城し、彼らが22日に岐阜城を攻め、翌日陥落させたため、尾張あたりで防御しようとした三成方の防衛ラインが後退してしまったこと、三成方は大垣城を拠点として、南宮山の毛利・吉川、松尾山に輝元に入ってもらって後詰作戦を取ろうとして、吉継はそのために山中に布陣して、土塁を構築し家康を迎え撃つ準備をしていたこと、しかし、゛9月14日に松尾山に旗色の不鮮明な小早川秀秋が入ってしまったため、家康と呼応して攻撃されることを三成方は恐れて、秀秋を味方に取り込むために関ヶ原に移動したことなど。
 三成方にとって、岐阜城を落とされたことが大いなる痛手であり、戦略の変更を余儀なくされ、三成は北国方面、伊勢方面に展開していた軍勢を関ヶ原付近に集結させたということは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)に記しました。松尾山に輝元に入ってもらおうと三成方が準備を整えていたこと、その松尾山に動きの怪しい秀秋が勝手に入ってしまったために、三成方は秀秋を牽制すべく大垣城を出て関ヶ原方面に移動したことも述べました。これは中井俊一郎氏の見解によるものです。
吉継が9月2日か3日に山中に布陣したとするのが通説ですが、高橋陽介氏は関ヶ原の戦いの前夜、大垣城にいたという見解を示されています。この見解については、白峰旬氏によっていろいろな根拠を挙げて否定されています。もっとも、吉継がいつの時点で山中に布陣したのかは、今後検討すべき課題だと思われます。
 高橋氏は、今まで吉継が陣を置いていたとされる山中の地に島津義弘が布陣したと主張されており、白峰氏は吉継が戦いの当日、関ヶ原表に進出していたと主張されていますから、吉継が最初は山中にいて、そこから関ヶ原に兵を進めたのかどうか、気になるところです。山中などに土塁を構築したのも、吉継であったのかどうかについても検証は必要だと思われます。大垣城の城主であった伊藤盛正は、三成に大垣城を渡した後、今村に移り、福束城の救援に失敗した後、松尾山に入っていますから、伊藤が松尾山に土塁などを築いたことも考えられます。
 白峰氏は、三成方が布陣したのは関ヶ原ではなく、山中だと主張され、それを踏まえた形で、高橋氏は、新たな布陣場所を示されていますが、実際、その場所には土塁などが構築されていることを確認されています。拙ブログでも以前述べたように、三成の布陣場所とされる自害ヶ峰にも上りましたが、土塁や切岸などの遺構があることを確かめました。
 それらの土塁などを構築したのは吉継ではないとしても、ある程度の日数がかかったはずで、山中で家康方を迎え撃つことは、選択肢の一つとして考え、準備を整えていたのではないでしょうか。
 
 

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