関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2433 布谷陽子氏「関ヶ原合戦の再検討」7 三成による家康暗殺計画?

<<   作成日時 : 2018/10/24 10:32   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」(谷徹也氏編『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』【戎光祥出版】所載)の中で、慶長4年(1599)2月29日に、三成が家康を暗殺しようとしたという説について取り上げられています。それに関連して、「家康暗殺計画に奉行ならびに輝元と宇喜多秀家が関与していた」という「慶長治乱記」の記述も紹介されています。もっとも、布谷氏の同書には、「この記事の信憑性についてはさらに考察すべき余地があるが、この頃には豊臣政権内の分裂がさらに進行し、具体的に名前が示されるまでに発展していたと考えられることは注目すべきである」と記されています。
 確かに、家康が秀吉の遺命に背いて他の大名家と婚姻関係を結ぼうとしたことに関して、四大老と五奉行が糾弾していますから、そのことを巡って対立が起こったのは事実ですが、三成が家康を暗殺しようとしたというのはよくドラマや小説で描かれているものの、私は否定的に捉えています。
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中でも、「寛永年間に成立されたとされる『当代記』には、慶長4年(1599)正月中旬に三成が家康を滅亡させる企てをおこしたと伝える。大谷吉継(刑部少輔)までが家康側に荷担したため、三成の企ても潰えたとするが、史実として採用するには問題をのこす」と記されています。
 この暗殺計画は、拙ブログでも以前取り上げたように、大河ドラマ「真田丸」でも取り上げられていましたが、中野氏も史実としては疑問を呈されています。
 この時期、三成はあくまで他の大老と五奉行と結んで、家康を詰問していますから、こういう単独行動(2月の計画の方は三成だけでなく輝元と秀家も関与していたとされていますが、利家・上杉の名はありません)は考えられません。あくまで三成は五大老・五奉行制による集団指導体制を維持しようとしていましたから、家康を武力で排除するという行動に出て、自ら集団指導体制を崩すとは思えないのです。家康を暗殺すれば、家康派も少なくなかったのですから、天下に争乱が起こりかねず、失敗しても、その計画をもって家康側から逆に糾弾することは必定です。事実、この後、前田利長らが家康暗殺をはかったとして前田家に圧力をかけ、関与としたとされる人物に処分を下しています。
 三成が家康に対して武力闘争に出るとするなら、四大老・五奉行の合意の上で行ったのではないでしょうか。家康を討つという大義名分を整えた上でするのが、豊臣公儀を構成するメンバーとして是非とも必要だったというのが私見です。
 実際は、2月29日、前田利家が伏見の家康を訪問し、この後、家康と前田氏らとの和解がはかられています。

 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2433 布谷陽子氏「関ヶ原合戦の再検討」7 三成による家康暗殺計画? 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる