関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2412「英雄たちの選択 大谷吉継」7 関ヶ原の戦いの経緯

<<   作成日時 : 2018/10/03 11:33   >>

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 さて、番組「英雄たちの選択 大谷吉継 関ヶ原もう一つのシナリオ」で、関ヶ原の戦いの経緯は従来通りの説明がされていました。
 すなわち、戦いは午前八時に始まり、午前中はむしろ三成方が押していたが、戦いに加わったのは三万五千に過ぎず、正午に小早川秀秋が裏切り、それを想定していた吉継は秀秋隊を押し返したものの、脇坂たちも裏切るに及んで、吉継隊は壊滅し、吉継は自刃したと。
 小早川秀秋が最初から裏切っていたこと、吉継は山中ではなく、関ヶ原表に出陣していたため、前から家康方武将、背後から秀秋に攻められ、壊滅し、その後、山中に布陣していた三成方の主力部隊が家康方に攻められ壊滅したという白峰旬氏の見解は、この番組では全く取り上げられていませんでした。
 外岡慎一郎氏は、勝った家康が、吉継が陣を置いていたとされる山中に行って最初の論功行賞を行ったことについて、この戦いの中心は三成ではなく、吉継であったと家康が思ったからで、家康は大谷の心がわかっていて慰霊のためにそこへ行ったと説明されていました。しかし、吉継が通説とは違って、関ヶ原表に進出していたとしたら、こういう見方は大きく変わってきます。山中が主戦場であったから、家康はそこに行って勝鬨をあげ論功行賞をしたというのが自然ではないでしょうか。
 小谷賢氏も、吉継が他の三成方の武将が関ヶ原に陣を置いたのに対して、自分だけ山中に陣を置いて、裏切るかもしれない秀秋に側面をさらすということを敢えてしているのは、他の武将にも真似できないことであり、火中の栗を拾うのが吉継の生き方だと評価されていました。ここにも、吉継が布陣したのは山中だったという従来からの説が踏襲されていますが、白峰氏の見解に従えば、吉継だけが関ヶ原表に進出しましたから、その理由を考察する必要はありますが、この場合も「火中の栗」を拾ったと云えるかもしれません。
 中野信子氏は、吉継には欲がなく正義心に富み、賢かったために逆に人を見誤ってしまったと主張されていましたが、見誤ったというのはいささか酷な気がします。秀秋の怪しい動きはつかんでいましたし、各武将がどちらに就くかは、家康もはっきりわからず、事態は流動的で、どう転ぶかわからない状況だったのではないでしょうか。

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