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zoom RSS 三成の実像2439 白峰旬氏「豊臣七将襲撃事件は単なる『訴訟騒動』」6 二段階の騒動

<<   作成日時 : 2018/10/30 01:16   >>

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 白峰旬氏の「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は『武装襲撃事件』ではなく単なる『訴訟騒動」であるーフィクションとしての豊臣七将襲撃ー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第48号所載)の中で、「言経卿記」「義演准后日記」「舜旧記」「北野社家日記」「三藐院記」「お湯殿の上の日記」「多聞院日記」を精査・検討されていますが、J点目の指摘として、「義演准后日記」閏3月9日条「伏見での『申事』はいよいよ別条がない」との記述内容は、騒動の第一段階に関わることなのか、第二段階に関わることなのか、どちらの可能性も考えられる」という点が挙げられています。
 第一段階とは、拙ブログで前述したように、「北野社家日記」閏3月7日条の「大名衆が申し合わせて、石田三成に腹を切らせようとした」と記されていること、及び「言経卿記」閏3月8日条の「伏見での雑説は、北政所の仲裁により『無事』になった」と記されていることを指します。北政所の仲裁によって、騒動は一旦収まったわけです。
 北政所が調停に関与していたと跡部信氏が指摘していることが、谷徹也氏の「総論 石田三成」で取り上げられています。
 第二段階の騒動とは、これも前述したように、「舜旧記」閏3月9日条の「石田三成と7名の大名衆が伏見にて『申合』があった。しかし、家康から『中』に『此事』があった。(この結果)三成は江州佐和山城へ隠居した」こと、及び「義演准后日記」閏3月10日条の「石田三成は江州佐和山城へ隠居した。大名10人ということであるが、『申合』をして『訴訟』があった。(それに対して)家康が『異見』をした」ことを指します。
 K点目の指摘として、「三成と諸大名との間のトラブルにおいて、三成と敵対した諸大名がこうした騒動をおこした具体的な理由については、表1の関係史料には記されていない」という点が挙げられています。
 もっとも、N点目として、「北野社家日記」閏3月10日条に、三成が佐和山に隠居したということに続いて、「熊谷直盛・福原長堯(高)などは高野(山)へ行く、という風説がある」との記述から、「熊谷直盛と福原長堯(長高)は朝鮮出兵では三成の立場に近い立場の目付であり、この2人は閏3月19日に朝鮮出兵時の『私曲』により改易にされているので、三成と敵対した大名の伏見での騒動はこの問題も一部は関係していたことを示している」と指摘されています。
 熊谷と福原は、慶長の役の蔚山城籠城戦の際、諸将が敵を追撃しなかったことや、現地で勝手に戦線縮小をはかろうとしていたことを秀吉に報告したため、諸将は処分されました。三成は文禄の役の立場から見て、現地の武将たちに理解を示していたはずですが、立場上、熊谷や福原らを守らざるをえなかったと思われます。そのことで三成は武将たちの恨みに買うことになりました。

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