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zoom RSS 三成の実像2415 「英雄たちの選択 大谷吉継」9 三成引退後、政権の調停役・宇喜多騒動

<<   作成日時 : 2018/10/06 11:14   >>

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 番組「英雄たちの選択 大谷吉継 関ヶ原もう一つのシナリオ」で、三成が七将による襲撃事件の責任を取らされる形で佐和山に隠居した後、吉継は政権内で調停役として活躍し、政権の屋台骨を支えていたと述べられていました。
 宇喜多騒動に家康と共に仲介役を務めたことが挙げられ、政権の支えとして吉継は家康から厚い信頼を得るようになっていたと説明されていました。また上杉家の史料である「上杉家御年譜」にも、吉継は家康に近く、何でも頼るようにという記述があることが挙げられていました。
 宇喜多騒動については、大西泰正氏の「宇喜多騒動の経緯」「宇喜多騒動の展開と結果」(『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家』所載)に詳しく論じられていますが、大谷吉継の仲裁については、次のような記述があります。
 「『慶長年中ト斎記』などの記載通り、この間、大谷吉継・榊原康政・津田正秀(小平次)の仲裁があったと思われるが、結果的に騒動の収束は、徳川家康の介入に負うところが大きかったと考えられる」
 「『当代記』には、この君臣対立の詮議についての記述がある。これによれば、大谷吉継は秀家に理があるとし、家康は『家老之衆』を弁護したらしい。双方に相応の根拠・言い分があったと見え、ここに騒動の複雑さが見て取れよう」と。
 「当代記」の記述を見る限りでは、吉継と家康の姿勢の違いがあるように思います。私見ですが、このあたりから吉継は家康の、有力大名を一人ずつ屈服させてゆき、自分が天下の実権を握るという意図を如実に感じるようになったのではないかと思っています。
 宇喜多騒動の時期については、大西氏の同書で、「騒動の勃発は慶長4年の秋から冬にかけての出来事であり、その収束は、徳川家康の調停のもと、翌春(正月ないし2月)のことであったと見ておきたい」と記されています。
 慶長4年の9月に、家康暗殺未遂事件が起こり、家康は前田利長に嫌疑をかけ、結果的に前田利家の未亡人のまつを人質に取り、前田家を屈服させますから、次に家康がターゲットを向けたのが宇喜多家だったと云えなくもありません。そして、その次に家康が向けたターゲットが上杉家で、会津攻めにつながります。
 ちなみに、宇喜多騒動を起こした家臣たちは多くが宇喜多家を離れ、関ヶ原の戦いでは、家康方に就きましたから、宇喜多家にとっては兵力的に大きな痛手になったと思われます。そういう意味では、家康の作戦は成功したと云えます。

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