関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2417 番組「にっぽん!歴史鑑定“島津退き口” 」2 三成の大坂城入り・佐渡での一件

<<   作成日時 : 2018/10/08 10:48   >>

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 BSの番組「にっぽん!歴史鑑定『関ヶ原の戦い〜運命を変えた“島津退き口”』」の中で、伏見城入りを拒否された義弘が西軍(三成ら豊臣公儀側)に就いたのは、周囲がすべて西軍であり、そうするのが生き残る道だったと説明されていました。
 この点に関して、桐野氏の「関ヶ原 島津退き口」(学研新書)の中で、義弘が西軍に就いたのは、島津本宗家の家督を継いだ忠恒の夫人亀寿の存在が大きかったと指摘されています。亀寿は、三成方に人質として取られていました。
 番組では、挙兵した三成が7月中旬頃に大坂城に入って打倒家康を掲げたと説明されていましたが、まだその頃は三成は佐和山から出ていなかったのが桐野氏の見解であり、私もそう思っています。三成が奉行に復帰したのは、中野等氏の見解では7月末、白峰旬氏の見解では8月になってからと、若干の違いはありますが、三成が7月29日に伏見城攻撃に参加した翌日に大坂城に入ったのが、挙兵後初の大坂城入りだったと思われます。
 関ヶ原の戦いの際、島津義弘が三成に確執を持っていたから、戦いに積極的に参加しなかったということについて、桐野作人が否定的見解を述べておられました。番組では、8月22日、島津義弘が墨俣で守りを命じられた時、翌日、家康方軍勢が岐阜城を落とし、さらに西に向かっておうという動きに出た時、三成は佐渡(さわたり)で軍議を開き、大垣城への撤退を決定しましたが、義弘は島津軍を墨俣に残したまま撤退できないと突っぱね、義弘自ら出向き島津の兵を退却させたため、そのことを後で三成は詫びたものの、一説ではこの時の出来事で二人の間で確執が生まれたと云われていると説明されていました。
 この描き方では確執があり、関ヶ原では動かなかったったというような捉え方ですが、桐野作人はこれに対して、義弘は感情で動くような人物ではないと否定されていました。
 佐渡・墨俣の件に関しては、桐野氏の「真説関ヶ原合戦」(学研M文庫)の中で、三成も自軍の軍勢を前線に残したままであること、三成は墨俣から大垣城に戻ってきた義弘を一人城外に出て出迎えていたことが記されていますが、番組ではその点には触れられていなかったのが、残念でした。時間がなかったのかもしれませんが、大事な点などで説明してほしかったところです。
 島津隊が関ヶ原で動かなかったのは、二番備えであったからで、動く前に小早川の裏切りで趨勢が決まってしまったというのが、桐野氏の見解ですが、最初から秀秋は裏切っていたという白峰氏の見解に従えば、島津隊は動く間もなかったということになります。
 









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