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zoom RSS 三成の実像2450 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討」10 輝元の四国侵攻

<<   作成日時 : 2018/11/10 10:33   >>

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 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」(谷徹也氏編『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』【戎光祥出版】所載)の中で、毛利輝元が関ヶ原の戦いの直前、出した軍令や書状の一例として、7月29日付で長束正家・増田長盛・前田玄以・毛利輝元が連署して佐波広忠らに出した書状が取り上げられています。これは輝元が総大将としてかつぎあげられたのではなく、積極的だったことを示す証左として挙げられています。
 その連署状について、次のように解説されています。
 「これは『萩藩閥閲録』に収められている蜂須賀家政の居城の収城に関する文書である。蜂須賀氏は親子で東西軍に別れて生き残りを図った一族であり、父家政は西軍に属しはしたものの、病気と称して実際の戦闘には参戦しなかった。一方、嫡男の至鎮は徳川家康の養女氏姫を妻とし、早くから親家康派とされ東軍に従軍していた。
 家政の居城阿波猪山(徳島)城以外で四国に大きな拠点を有し西軍に属した武将は、土佐浦戸の長宗我部盛親のみであった。そのため輝元は、態度がはっきりしない家政の元へ自分の家臣である佐波広忠らを派遣し、四国における西軍拠点を確実なものにしようとしたと考えられるのである」と。
 この連署状は、白峰旬氏作成の「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」にも記載されており、その内容について次のように要約されています。
 「阿波国猪山城(徳島城)の山上・山下以外に陣取りしないように命じる。乱暴・狼藉を働く者については、速やかに成敗を加えるように指示」と。
 この連署状・軍令が大きな意味を持つことについて、布谷氏の同書では、次のように指摘されています。
 「輝元は家臣宍戸元真らを四国へと派遣し、お家再興を目論んでいた河野一族とその旧臣と連合して、8月28日から9月18日まで伊予三津浜で加藤忠明と交戦しているのである。このときの輝元のねらいは加藤嘉明の松前城と藤堂高虎の大洲城を収めることであったという」と。
 この戦闘については、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)の中で、具体的に記され、「伊予においては従来云われていたような局地的な戦闘があっただけではなく、調略と直接軍事行動の両面から毛利氏は大規模な侵略行為を実施していたのである」と結論づけられています。
 藤田達生氏の「秀吉と海賊大名」(中公新書)の中でも、毛利氏の伊予侵攻戦について具体的に記されています。
 
 

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