関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2455 宇喜多隊と島津隊の間の池・豊久の陣跡付近探訪

<<   作成日時 : 2018/11/16 19:54   >>

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 昨日の高橋陽介氏の見解による、関ヶ原の戦いにおける三成方軍勢の陣地跡巡りですが、三成の本陣があったとされる自害峰から下りた後、その西側にある低湿地に足を延ばしました。今は柿畑や田んぼになっていますが、高橋氏の見解によれば、ここにかつて池があったと云います。島津家史料によれば、家康方軍勢に攻撃され壊滅した宇喜多隊はこの池に逃げ込み、さらに島津隊の陣地に逃げました。この西側に島津豊久の陣跡があったというのが高橋氏の見解ですが、豊久が陣したとされる場所付近にも足を運んできました。現在、東海道新幹線と国道21号が交差する付近であり、具体的にどの場所だと高橋氏は特定されていませんが、島津義弘が陣した場所(従来は大谷吉継が陣していたと考えられてきたところ)の南に当たり、島津隊の前備が豊久であったとすれば、やはり南の松尾山を志向したものになっています。
 実際に、秀秋は松尾山にいて、三成方軍勢が動きの怪しい秀秋を牽制する布陣を山中地区で取っていたとすれば、なぜ大谷吉継がたやすく秀秋の攻撃を受けたのか、他の三成方軍勢が吉継を助けるような動きに出なかったのか、疑問がつのります。高橋氏の見解によれば、大谷吉継が陣していたのは、現在、不破関資料館が建っているあたりですから、家康方軍勢から見て一番前にいた敵が吉継隊ということになりますが、石田隊や宇喜多・小西隊の陣した場所とはそれほど離れていません。
 白峰氏は大谷吉継は関ヶ原表に出ていたと主張されていますから、吉継はもっと前、すなわち東側に展開しており、三成方軍勢が助けに行けないぐらい離れていたとも考えられます。吉継も秀秋の動きが怪しいとわかっておれば、秀秋から背後を襲われるかもしれないと思っていたはずで、前から来る家康方軍勢とたやすく挟撃され、壊滅してしまうとは考えにくいのではないでしょうか。吉継が秀秋の怪しい動きを知らなかったとも考えられますが、三成方軍勢とある程度の連携ができていたはずですから、三成方軍勢が秀秋の動きに警戒していたとすれば、それもどうかという気もします。
 白峰氏は、三成方軍勢が山中方面に移動したのは、家康方軍勢が大垣城の後詰である南宮山を攻めようとしていたからで、言わば「後詰の後詰」作戦に出て、家康方軍勢を南宮山と山中とで挟撃しようとしていたと主張されています。南宮山の吉川広家が家康に屈服して、兵を動かさなかったから、三成方の作戦は失敗したと。
 関ヶ原の戦いの前日、秀秋が本当に松尾山にいたのかということも含めて、三成方軍勢の移動の理由、実際の布陣場所など、まだまだ解明すべき問題は多いという気がします。一次史料の分析をもとにした今後の研究成果に大いに期待しています。
 

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