関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2462 白峰旬氏の講演「関ヶ原の戦いを再検討する」7 反家康の挙兵

<<   作成日時 : 2018/11/23 00:10   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 昨年8月20日に、佐賀県立佐賀城本丸歴史館で行われた、歴史企画「関ヶ原の戦いを再検討するー龍造寺・黒田・加藤を中心にー」において白峰旬氏は基調講演「関ヶ原の戦いを再検討する」をされましたが、その内容報告が、別府大学史学研究会『史学叢書』第48号に掲載されました。その内容紹介の続きです。
 講演会では、石田三成・毛利輝元などによる反家康の挙兵が、「いきあたりばったりの無計画な挙兵だった」という通説について、「そうではない」と否定されています。すなわち、「これまでの通説では、結果だけを見て、悪あがき的な無計画さが強調されてきた」が、これは「どうせ家康に勝てるわけはない的な見方」だと述べられています。
 そういう通説に対する否定的な見解の根拠として、「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』には、家康に対して、日本史上まれにみる政治謀略が仕組まれた、という意味のことが書かれている」ことが挙げられ、「公儀から排除(放逐)された家康の前途は明るいものではなかった」と指摘されています。
 「関ヶ原の戦いでは政権軍(豊臣公儀=石田・毛利連合軍)が敗れるが、政府軍が負けることは古代における壬申の乱(672年)も同様」であり、「政府軍がいつも勝つとは限らない」し、「政府軍、というか石田・毛利連合軍が負けたという結果だけから、この挙兵の意義を過小評価してはならない」と指摘されています。
 関ヶ原の戦いの主戦場が、白峰氏の見解通り、関ヶ原ではなく、山中地区であったとしたら、壬申の乱と同じようなところで起こったわけで、そういう意味でも2つの戦いの共通点が見出せます。
 江戸時代には三成は謀反人扱いされましたから、三成側が豊臣公儀軍であったという認識はなくなってしまいました。それが、今になってようやく、白峰氏による一次史料の検討によって、三成側が政府軍であり、家康は正統性が失われていたということが明らかになってきたわけです。
 2000年に放送された大河ドラマ「葵 徳川三代」では、豊臣軍同士の争いであったという捉え方をされていましたが、それまでは豊臣対徳川の争いという見方が一般的でした。関ヶ原の戦いの実相がようやく解明されてきたという実感を持ちます。
 もっとも、白峰氏も指摘されているように、公儀性を剥奪されていた徳川方が勝利した原因については、分析や検証が必要だと思われます。豊臣政権への不満・矛盾が噴き出して、それが家康に味方することになったのかもしれませんし、家康が巧みに大名を懐柔したり屈服させたりして、味方に付けていった点も挙げられます。秀吉の死後、秀頼は幼く、家康の所領が一人抜きんでており、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも記したように、諸大名の間に「長いものに巻かれろ」式な保身を図ろうとする意識が働いていたこともあると思われます。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2462 白峰旬氏の講演「関ヶ原の戦いを再検討する」7 反家康の挙兵 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる