関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2467 白峰旬氏の講演「関ヶ原の戦いを再検討する」11 当日に小早川はどこにいたのか?2

<<   作成日時 : 2018/11/28 10:45   >>

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 昨年8月20日に、佐賀県立佐賀城本丸歴史館で行われた、歴史企画「関ヶ原の戦いを再検討するー龍造寺・黒田・加藤を中心にー」において白峰旬氏は基調講演「関ヶ原の戦いを再検討する」をされましたが、その内容報告が、別府大学史学研究会『史学叢書』第48号に掲載されました。その内容紹介の続きです。
 「9月15日に小早川秀秋はどこにいたのか?」という問題に関連して、8月29日の時点で、秀秋が石田三成・宇喜多秀家・小西行長・島津義弘と共に大垣城に籠城していたとする記述が、8月29日付の松沢喜右衛門尉他二名宛保科正光書状にあることが挙げられています。
 その記述に関して、「このことが本当であれば、小早川秀秋は大垣城から関ヶ原に向かったことになる」と解説され、次のような問題提起がされています。
 「その時、大垣城から関ヶ原への移動に大谷吉継も同道していた、と想定することは可能か?」「高橋陽介氏の大谷吉継・大垣在城説との関係を真剣に検討すべきか?」と。
 高橋氏は大谷吉継が山中に陣を置いていたという通説とは違って、関ヶ原の戦いの以前に大垣城に入って前日まで大垣城にいたという新説を唱えられていますが、その新説については、白峰氏の講演会で考察が加えられていますので、後述します。
 小早川についてのこういう問題提議は、これまでの小早川の居所と行動についての通説を全く覆すものです。これまでの通説は、たえば、桐野作人氏の「謎解き 関ヶ原合戦」(アスキー新書)の中に、「新訂 寛政重修諸家譜」などをもとにして、次のように記されています。
 「小早川勢は伏見城攻略ののち、宇喜多秀家・毛利秀元を主力とする伊勢方面軍に組み入れられて東海道を進んだが、鈴鹿越えをして関地蔵まで達したところで、突如、引き返して、今度は日野、愛知川から中山道を進み、近江国高宮に滞陣した。高宮は石田三成の居城佐和山から南東に一里程度しか離れていない」
 「秀秋が高宮に滞陣したのは9月7日から13日までのようである」。
 小早川の動きについては、こういう理解が一般的であり、私も以前はそう思ってきましたが、一次史料の検討に基づいた最近の白峰氏や高橋氏の新説に触れて、通説が正しいのか、根本的に見直す必要があるのではないかという思いが生まれてきたわけです。
 もし、小早川が三成方軍勢と共に、大垣城を出たとするなら、その時点で三成方軍勢は小早川の動きを疑っていなかったことになりますし、関ヶ原の戦いの様相も大きく変わってきます。

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