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zoom RSS 三成の実像2443 白峰旬氏「豊臣七将襲撃事件は単なる『訴訟騒動』」10 奉行職に復帰

<<   作成日時 : 2018/11/03 18:30   >>

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 白峰旬氏の「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は『武装襲撃事件』ではなく単なる『訴訟騒動」であるーフィクションとしての豊臣七将襲撃ー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第48号所載)の中で、「言経卿記」「義演准后日記」「舜旧記」「北野社家日記」「三藐院記」「お湯殿の上の日記」「多聞院日記」を精査・検討されていますが、Q点目の指摘は、昨日付拙ブログの最後で触れたことと重なります。
 すなわち、「敷衍すれば、翌年(慶長5年)7月に、大坂三奉行(増田長盛・長束正家・前田玄以)が『内府ちかひの条々』を出したあと、石田三成が奉行職にすぐ復帰できたことも、こうした事情を勘案すれば整合的に理解できる」と。
 三成が奉行職に復帰した日については、中野等氏は7月末、白峰氏は8月になってからと指摘されていますが、いずれにせよ、「内府ちかひの条々」を出してから半月足らずぐらいで返り咲いているわけです。
 それ以後は、二大老・四奉行の名で連署状を出しているわけですが、前にも拙ブログで紹介したように、白峰氏作成の「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」(『豊臣公儀としての石田・毛利連合政権』所載)の中で、二大老・四奉行連署状の初見として8月1日付の書状が二通挙げられています。次に8月2日付のものが一通。8月4日付けのものは、二大老連署状、四奉行連署状と分かれていますが、同じ松井康之宛のものであり、白峰氏による【註】には、「四奉行の連署状は二大老の連署状の副状(そえじょう)的な性格であったと考えられる」と指摘されています。二大老・四奉行制が機能していた証です。
 三成はこの後、8月8日に大垣に出陣しますから、この種の連署状の発行はなくなります。大垣城で三成・小西行長・島津義弘・宇喜多秀家の名で禁制を出していますので、彼らが豊臣公儀の一員であったことがわかり、現地でもその体制は維持されていたわけです。
 ただし、関ヶ原の戦いの前日の9月14日付の、安国寺恵瓊・大谷吉継・石田三成・長束正家・宇喜多秀家の名で小早川秀秋の重臣に宛てた次のような内容の書状については、白峰氏による【註】で「偽文書の可能性が高い」と指摘されています。
 「秀頼が15歳になるまでは、関白職と天下は秀秋公へ譲渡すべきこと、秀秋公の上方での御賄のため播磨国を渡すべきことは言うに及ばず、筑後・筑前両国は前々のごとく(与えること)、などを記す」と。
 このことは、よく小説やドラマで取り上げられますが、内容が「荒唐無稽である」と白峰氏が指摘されている通り、にわかに信じがたい内容です。

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