関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2469 白峰旬氏の講演「関ヶ原の戦いを再検討する」13 吉継は大垣城に入城したのか?2

<<   作成日時 : 2018/11/30 10:34   >>

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 昨年8月20日に、佐賀県立佐賀城本丸歴史館で行われた、歴史企画「関ヶ原の戦いを再検討するー龍造寺・黒田・加藤を中心にー」において白峰旬氏は基調講演「関ヶ原の戦いを再検討する」をされましたが、その内容報告が、別府大学史学研究会『史学叢書』第48号に掲載されました。その内容紹介の続きです。
 8月1日付の中川秀成宛黒田如水書状に、伊勢と江州の境目に城をこしらえ、その大将に大谷吉継がなり、それは家康の西上に備えたものだという意味のことが記されていることが取り上げられ、その記述について次のように考察されています。
 「この城は松尾山城のことか、或いは、それ以外の城か、いずれにしても新規築城ということになる」
 「8月1日の時点で大谷吉継は北陸ではなく、家康迎撃のため伊勢・近江の境目に着陣予定だった、ということか?」
 「ただし、この情報は黒田如水が情報源なのでどこまで正確な情報なのか検討の必要はある」と。
 確かに、この時如水は九州にいましたから、どこまで正確な情報をつかんでいたのかは疑問の余地はありますが、通説では、この時期、吉継は加賀の前田家との戦いに赴いたとされています。
 この点について、敦賀市立博物館発行の図録「リニューアル記念特別展 大谷吉継 人とことば」所載の「大谷吉継関連年表」には次のように記されています。
 慶長5年7月の項に「前田利長軍の南下を知り、越前に移動(8月、利長軍を撤退させる)」、8月の項に「大聖寺まで進軍し、ついで兵をまとめ美濃に向かう」と記されています。
 こういう吉継の動向が、どこまで一次史料で裏付けられるのか、今後の検討課題だと思われます。
 講演会では、通説とは違って、「小早川秀秋と大谷吉継が大垣城に籠城していたとすると」と仮定した場合、「どのような想定が可能か?」検討されています。
 すなわち、「9月14日の夜に大谷吉継、小早川秀秋も大垣城から関ヶ原へ移動したのか?そして、石田三成などは山中へ布陣し、大谷、小早川は関ヶ原へ布陣したのか?」
 「それとも、9月14日の夜よりも前に(9月13日?)、大谷吉継と小早川秀秋は先に大垣城から出て関ヶ原へ布陣したのか?」
 「この時点で、大谷吉継は小早川秀秋を味方と思い、疑っていなかった?」などと。
 あくまで仮定の段階ですが、ここでも全く新しい関ヶ原の戦いの姿が浮かび上がってきます。

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