関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2448 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討」8 家康対輝元の構図

<<   作成日時 : 2018/11/08 11:00   >>

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 布谷陽子氏の「関ヶ原合戦の再検討ー慶長5年7月17日前後ー」(谷徹也氏編『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』【戎光祥出版】所載)の中で、慶長4年閏3月21日に毛利輝元と徳川家康との間で交わされた起請文が取り上げられ、次のように解説されています。
 「この起請文は利家死後も豊臣政権を安定させることを意図し交わされたものなのである。そのような中において『対貴殿無表裏別心、如兄弟可申承候』という文言を起請文に記している点も、逆に輝元と家康の関係が平穏でなかったことを示唆しているようにも受け取れる」と。
 秀吉の遺命に反した家康の婚姻問題をめぐって、輝元は四大老・五奉行の一員として家康を糾弾する側でしたから、二人の関係も平穏ではなかったはずです。しかし、前田利家が家康邸を訪問し、今度は逆に家康が前田邸を訪問することによって、この対立関係はひとまず解消しました。しかし、利家の死の直後、豊臣七将による石田三成を切腹させようとする訴訟騒動が起こります。あくまで訴訟騒動であり、三成を襲撃しようとするものではなかったことについては、拙ブログ記事で前述したように、白峰旬氏の「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は『武装襲撃事件』ではなく単なる『訴訟騒動」であるーフィクションとしての豊臣七将襲撃ー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第48号所載)の中で、当時の関連史料から詳細に論じられています。
 また光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)において、三成が輝元と結んで、この七将の動きに対抗したことが、毛利元康宛毛利輝元書状などから明らかにされています。輝元は兵を動かして尼崎まで来ましたが、大坂城を家康派に押さえられてしまったために、計画は頓挫し、家康の仲介を受け入れて佐和山に隠居せざるをえませんでした。家康と輝元の対立もそれで収まったわけですが、そういう経緯がありましたから、2人は起請文を交わすことによって、関係の修復をはかったと云えます。
 布谷氏の同書では、こういうことから次のような指摘がされています。
 「豊臣政権内における勢力構図としては、これまで利家対家康の構図で語られてきた。ただし関ヶ原合戦を考えると、輝元対家康という構図に注目する必要がある」と。
 そして、輝元対家康という構図は、秀吉の生前から考えられていたものとして、文禄4年7月付の家康・輝元・小早川隆景の「起請文前書事」、それを受けた8月3日付で輝元が国元へ宛てた書状が挙げられています。
 この書状について、布谷氏の同書では「輝元は秀吉の意図を『東ハ家康、西ハ我々へまかせ被置之由候』と受け取り、そのことを端的に伝えているのである」と記されています。
 さらに「この構図がそのまま関ヶ原合戦へとつながっていくのである。つまり、東国の武将は東軍に属し、西国の武将は西軍に属す傾向にあったいわれる関ヶ原合戦において、この構図は大きな意味を持つものであったということができる」と指摘されています。
 輝元は関ヶ原の戦いで消極的であったと云われているものの、光成氏の同書において、輝元が西国では積極的な侵攻をしたことが記されています。
 
  

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