関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2475 白峰旬氏講演「関ヶ原の戦いを再検討する」19 家康方の先手メンバー・家康はどこに

<<   作成日時 : 2018/12/06 10:46   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 昨年8月20日に、佐賀県立佐賀城本丸歴史館で行われた、歴史企画「関ヶ原の戦いを再検討するー龍造寺・黒田・加藤を中心にー」において白峰旬氏は基調講演「関ヶ原の戦いを再検討する」をされましたが、その内容報告が、別府大学史学研究会『史学叢書』第48号に掲載されました。その内容紹介の続きです。
 関ヶ原の戦いにおける家康方の先手のメンバーについて、「一次史料でも史料により一致しない」と指摘されています。
 すなわち、9月17日付の吉川広家自筆書状案では「福島正則、黒田長政」、同日付の松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署状では「福島正則、井伊直政、尾張衆」、9月20日付の近衛信尹宛近衛前久書状では「福島正則(一番)、細川忠興(二番)、金森長近(三番)」、「舜旧記」9月15日条には「福田(福島ヵ)、細川忠興、加藤嘉明」と記され、これらに「一致するのは福島正則だけ」と記されています。
 また、生駒利豊書状の記述から、「尾張衆(尾張国内における少領主)も先手であったことは間違いない」と述べられています。
 われわれがよく知っている関ヶ原の戦いの布陣図は、明治時代に作成されたものだということが、白峰氏によって唱えられていますが、家康方の先手は具体的に誰だったのか、今後特定してゆく必要性があります。
 また講演では、「家康は家康方軍勢の大将なので後方に位置していたと思われるが、一次史料では正確な布陣位置はわからない」ということも指摘されています。
 この点について、以前拙ブログでも紹介したことですが、歴史番組「諸説あり!関ヶ原第二弾」で、高橋陽介氏は家康が関ヶ原の戦いに来ていず、美濃赤坂にとどまっていたという新説を唱えられていました。その根拠として、一次史料の中には戦いに向かった武将の中に家康や家康の家臣らの名前が記されていないこと、「慶長年中卜斎記」に、田中吉政が南宮山の毛利勢と小競り合いを起こしていたのを家康が見ていたと記載されており、家康が布陣とされる関ヶ原の桃配山からはその小競り合いは見えないこと、9月17日付の吉川広家自筆書状案には、南宮山に備えたのは井伊直政・本多忠勝・家康馬廻りであり、赤坂にいた東軍の先陣が出陣し、その場所に家康が入ったことが記されていることが挙げられていました。むろん、「卜斎記」は後年書かれたものであり、吉川広家自筆書状案に書かれていることが事実かどうかは検討の余地がありますが。
 もし高橋氏の説の通りであれば、家康は戦いの際、関ヶ原や山中方面に来ていなかったわけで、家康の活躍場面は全くなかったことになります。
 白峰氏の講演でも、このことに関して、次のような指摘がされています。
 「問鉄炮の話がフィクションであり、戦い(山中の戦い)が2時間程度で決着がついたとすると、この戦いにおける家康の見せ場は全くない」ことから、「このあたりが問鉄炮の話が出て来た背景ではないか」と。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2475 白峰旬氏講演「関ヶ原の戦いを再検討する」19 家康方の先手メンバー・家康はどこに 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる