関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像2605 白峰旬氏「【付論】多賀谷文書」2 多賀谷三経宛書状2 秀忠より秀康に出馬要請

<<   作成日時 : 2019/04/16 10:45   >>

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 白峰旬氏の「『喜連川文書』における関ヶ原の戦い関係文書について」(『研究論集 歴史と文化 第3号』【株式会社歴史文化の研究所】)の【付論】として多賀谷文書のいくつかも取り上げられていますが、そのうち「(慶長5年ヵ)6月23日付多賀谷三経宛結城秀康書状」について次のように解説されています。
 「内容的には、@『其元』へ着いたであろうか、諸事油断なく申し付けることが肝要である、A昨日(=6月22日)、江戸(=徳川秀忠)より『其表』の『模様次第』に『出馬』すべき旨を申して来た、B『相替儀』があれば、早々に『注進』するように、としている。
 この書状が慶長5年のものであれば、上記Aについては、上杉討伐との関係が想定される」と。
 前述したように、多賀谷三経は結城秀康に属し、関ヶ原の戦いの後、秀康の転封に伴い、越前に移り、そこで亡くなっています。
 上杉攻めに関して、家康から秀康にも出陣要請が来たことが、上記の書状からわかります。もっとも、三成らの挙兵によって、家康は上方に引き返すことになりますが、秀康は上杉氏の南下に備えて、そのまま関東に留まり、三経も行動を共にしています。
 結果的に、三経は関ヶ原の戦いに家康方に付いたわけですが、烏帽子親は三成であり、名前に「三」の字も入っていることからみて、心中には複雑なものがあったに違いありません。
 主君の結城秀康も、豊臣家や三成に特別な思いを持っていたはずです。秀康は一時、秀吉の養子になりましたから、三成との接点、親交もあったでしょう。三成が奉行職を解かれて佐和山に隠居した時、途中の瀬田まで警護を担当したのが秀康です。三成はそのことを感謝して、愛刀の正宗を秀康に贈り、その刀が今も残っています。
 秀康は家康の次男ですが、秀吉の養子になり、さらにその後結城氏の家督を継ぎましたから、徳川家の跡継ぎの地位は三男の秀忠に決まっていたものと思われます。、もっとも、秀吉の死後、秀康は、秀忠と協力して家康のために働いています。秀吉が死んだ直後、秀忠は江戸に下り、その代わりに秀康が上洛しています。このことについて、福田千鶴氏の「徳川秀忠」(新人物往来社)に次のように記されています。
 「慶長4年と推定される3月22日付の秀忠書状(秀康宛)では、路次中無事に秀康が上洛したこと、家康(『内府様』)が息災であること、前田利家(『大納言殿』)が病気のため家康が大坂へ下ったところ、利家と昵懇の関係が結ばれたこと、加えて家康が『六人のうち』へ入ったことを知らされ、以後も上方の様子を報告してくれるよう依頼している(『大阪城天守閣所蔵文書』)。江戸と上方とに分かれながら、秀康・秀忠兄弟は連携して協力しあっていた」と。

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