受贈御礼 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」1 三成の実像2606

高橋陽介氏より新著「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」をご恵贈賜わりました。この場を借りてお礼申し上げます。
 この書は、「豊臣秀吉の死去は朝鮮在陣の島津義弘らにどのように伝わったのか」の続編であり、前作同様、当時の人々の書状や日記などを時系列に並べて、当時の状況を説明したものです。
 高橋氏の新著の最後の「参考文献」の中に、拙ブログの題とアドレスが掲載されているのには恐縮すると共に、光栄に感じました。
 まず①「慶長3年9月5日、徳川家康は毛利秀元・浅野長政・石田三成らを博多へつかわすことにした」ということに関して、「8月5日付豊臣秀吉遺言状」が取り上げられ、次のように訳されています。
 「一、豊臣秀吉様が、徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家ら五人の年寄へ口頭で命じたことと、縁辺のこと(豊臣秀吉が命じたとおりに年寄間で婚姻関係をむすぶこと)は、たがいに申し合わせて守るように。
 一、徳川家康は3年間上方に居て、豊臣秀頼の後見役として豊臣政権を運営するべきこと。上方以外の地方に用事がある場合は、徳川秀忠を代理としてむかわせるように。
 一、五人の奉行のうち、前田玄以と長束正家の二人を最初として、その後は残る三人のうち一人ずつ交替で、豊臣政権の政庁である伏見城の留守居をすること。徳川家康は常時伏見城に在城すること。
 一、大坂城には五人の奉行のうち、常時二人が留守居として在城すること。
 一、豊臣秀頼様が大坂へ入城したら、人質である諸侍の妻子は大坂へ移動するべきこと」と。
 このうち、家康が「豊臣秀頼の後見役として豊臣政権を運営するべきこと」という文言は、原文にはなく、高橋氏の見解が反映されているものと思われます。それは、高橋氏の前作でも指摘されていましたが、「豊臣秀吉はその臨終において、もっとも有力な家臣である徳川家康に後事をたくし、ゆくゆくは豊臣秀頼に政権を返すように依頼しました」というものです。
 もし家康が秀頼の後見人であるとしたら、秀頼が大坂城に入れば、家康も大坂に移るように秀吉は命じるべきなのに、「家康は常時伏見城に在城すること」という文言が遺言状にあって、矛盾しているように思えます。むろん、豊臣政権の政務を執る場所は伏見城でしたから、家康に政務を任せたというふうに取れないことはありませんが。秀吉が秀頼を大坂城に移したのは、大坂城が伏見城より堅固な防備十分の巨大な城であったからでしょうが、家康を大坂城から切り離したことに、秀吉の思惑があったのではないでしょうか。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック