関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 旅行記145 石田三成の実像2624 壱岐対馬を経て韓国へ4 4年ぶりの名護屋城跡

<<   作成日時 : 2019/05/07 00:30   >>

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 写真は名護屋城跡の天守台から、壱岐・対馬方面を4月27日に撮ったものです。壱岐・対馬ははるか先で、かすかに見える程度でした。
 名護屋城跡は4年前にも訪ねましたが、途中までは前回と同じコースをたどりました。大手口、東出丸、三ノ丸、本丸、天守台、馬場と廻りましたが、この後、前回は二ノ丸、遊撃丸、水手口を経て、秀吉が住んでいた山里丸の方へ行ったのに対して、今回は二ノ丸の方へは行かず、弾正丸、搦手口と廻り、茶室で和菓子と抹茶をいただいて休息しました。
 朝鮮出兵の時は、この名護屋城から壱岐・対馬を経て朝鮮半島へ侵攻していきました。一番隊の小西行長・宗義智(そうよしとし)らの軍勢が、対馬から釜山浦に渡ったのは、文禄元年4月12日のことでした。この後、二番隊の加藤清正・鍋島直茂ら、三番隊の黒田長政ら、四番隊の島津義弘ら、さらに七番隊まで相次いで渡海して進軍しました。行長は朝鮮半島に渡るまで一ヶ月間、対馬に滞在していましたが、朝鮮側と交渉していたからでした。日本は「仮途入明」、すなわち明に侵攻するために朝鮮の道を貸してくれることを要求しましたが、朝鮮側はこれを無視しました。
 三成が名護屋に入ったのは3月中旬か下旬のことですが、秀吉が名護屋に入城したのは4月25日ですから、秀吉が来た時にはすでに戦いは始まっていたわけです。三成が増田長盛・大谷吉継と共に、秀吉の代わりに名護屋を出て、渡海したのは6月6日のことです。当初は秀吉が渡海する予定でしたが、延期され、結局、秀吉が朝鮮国に行くことはありませんでした。秀吉の渡海が延期されたのは、「不時の早風」という天候上の問題に加えて、後続する部隊の渡海が困難な時期にかかること、さらに金浦沖海戦で藤堂高虎隊が李舜臣らの水軍に敗れたとの報が日本側に伝わり、秀吉自身の渡海に不安が生じたからだということが、中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)の中で指摘されています。
 三成はかねてより朝鮮出兵に反対の立場だったと考えられますが、実際に朝鮮半島に渡って、現地の情勢をつぶさに見ることによって、このまま兵站が続かず、日本軍が危機的な状況に陥ってしまうことを見通し、小西行長らと共に講和の道を探ることになります。
 今回の旅は、三成が朝鮮半島に渡ったルートをたどってみようというので、船で壱岐、対馬に行き、そこから釜山に渡ってみました。むろん、名護屋からではなく、博多からであり、また当時の船ではなく、高速船でしたから、状況が随分違いますが、それでも船で朝鮮半島に行ったことは、少しでも当時のことを追体験できたような気がします。

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