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zoom RSS 旅行記152 三成の実像2630 壱岐対馬を経て韓国へ11 復元された熊川邑城

<<   作成日時 : 2019/05/15 12:15   >>

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平成最後の日の4月30日、釜山西方の倭城めぐりをしました。ワゴン車をチャーターして、8時半ホテルを出発しました。釜山に住んでいる倭城に詳しい、日本人女性の植本友里さんに案内していただきました。彼女はすべての倭城を踏破したというつわもので、黒田慶一氏の薫陶を受けており、2日間に渡ってガイドを頼みました。彼女は日本での倭城イベントに出演されたり、「清正流石垣のルーツ」という報告書を出されるなど、幅広く活躍されています
 まず熊川邑城へ行きました。ここは初めてです。朝鮮側が造った城ですが、文禄・慶長の役の際は、日本側が占領しました。発掘調査に基づき、城の一部が復元されており、公園のようになっています(上の写真は復元された東門楼)。説明掲示板には、次のように記されています。
 「『朝鮮王朝実録』によると、熊川邑城は南海岸に出没する倭寇と、近くの齊浦倭館の日本人を統制するため、世宗16年(1434)に築城された。地方の主な拠点に築城された邑城は軍事機能と行政機能を併せ持つ城郭であり、熊川邑城は南海岸に建設された沿岸の城壁である。倭寇が頻繁に侵略した場所であり、朝鮮前期に開港した三浦の中で最大の日本人居留地が作られた齊浦からわずか1qほどの場所に築城された熊川邑城は、三浦倭乱の時は日本人によって陥落し、東門が焼失した。文禄・慶長の役の時は、熊川倭城の子城として使われた。文禄・慶長の役以降も朝鮮軍の対日本防御の最前線としての役割を果たした。熊川邑城は2001年から2008年まで4回にわたって関連調査が行われ、東壁、南の主体の城壁、東門跡、甕城、東北・東南雉城、北・東・南の堀が発掘された。調査の結果、熊川邑城は世宗16年に周り3400尺、高さ15尺のものとして築城され、文宗と端宗の時代に至るまで、数回にわたる増改築されたことが確認された。とくに、平面は正方形から長方形に増改築されている、本体の城壁は、世宗の時に製図された『築城新図』前後の築城様式がすべて確認された。堀は当初の堀、増築の堀すべてが確認されており、また堀内から跳ね橋、敵が堀を渡るのを防ぐために底に打ち込んだ木の杭が見つかっている」と。
 倭寇、日本軍によって侵略された熊川邑城の苦難の歴史がしのばれますが、史跡として復元されていることは
良いことです。文禄・慶長の役の際は、熊川倭城の子城として使われたので、三成が熊川倭城を訪ねたのは確かですから(相良長毎宛三成書状)、この熊川邑城を訪ねた可能性もあります。
 われわれも、この後、熊川倭城に登りました。熊川倭城は17年前ぶりのことです。熊川倭城の城主の変遷はありますが(後述)、主として在番したのは小西行長・宗義智ですから、子城として使われた熊川邑城も、行長らが使っていた可能性が高いと思われます。

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