旅行記153 三成の実像2631 壱岐対馬を経て韓国へ12 17年ぶりの熊川倭城

 
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4月30日、釜山西方の倭城めぐりをしましたが、熊川邑城の次に熊川倭城へ行きました。熊川倭城は17年前にも登りました。写真は山頂の様子を撮ったものです。石がゴロゴロしてしているのは、以前と変わりません。山の上から海が見えましたが、埋め立てが進んでおり、海岸線が随分後退したという印象を持ちます。
 熊川倭城は小早川隆景が築城し、このあと上杉景勝も加わりましたが、景勝は三ヶ月程で名護屋に戻っています。隆景の代わりに、小西行長が入りましたが、石田三成も熊川倭城を訪ねています。
 なお、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、小西行長が熊川倭城に入る前に島津勢が熊川倭城に駐屯していたものの、巨済島(唐島)への移動が命じられたことが記されています。巨済島へは、熊川倭城を訪ねた後、初めて渡りました。橋ができて、行くのが便利になりました。
 熊川倭城は登り石垣が特徴的で、17年前に来た時にも、強く印象に残りました。比較的遺構がよく残っています。
  登山している韓国人に何人も出会いましたが、これは17年前と同じで、「アンニョンハセヨ」「アンニョンハシム二カ」などと声を掛け合いました。なお、17年前の熊川倭城登山のことは、拙ブログ3月7日付の記事に載せています(2002年7月6日付で拙ホームページで公開していたものを、ホームページが閉鎖されたため再びブログで掲載したものです)。
 三成が熊川倭城に来たことを裏付ける史料として、文禄2年6月16日付の相良頼房(長毎)宛三成書状が挙げられます。その書状では、「一両日中」に熊川倭城を訪問することを記しており、このことは中野氏の同書でも取り上げられ、三成は「構築中の各要害をつぶさに検分しているようである」と記されています。
 この前後の三成は忙しく行動しています。増田長盛・大谷吉継・小西行長と共に、明使に同行し、名護屋に着いたのが5月13日。三成らが朝鮮に戻ったのが5月24日。その後、釜山近辺の構築中の倭城を検分して回るわけです。この後、晋州城攻撃に加わりますが、晋州城が落城したのは6月29日です。
 秀吉が名護屋で明使に「大明日本和平条件」を提示していますが、秀吉は一方で晋州城攻撃を命じていましたから、和平両用の作戦で臨んでいたわけです。和平条件が提示されたことによって、日本も在番体制を整えた上で、撤兵します。三成がこういうことを見届けて、日本に名護屋に帰還するのは9月23日のことであり、これ以降、三成が渡海することはありませんでした。三成はその後、国内での政務に中心的に当たることになります。
 

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