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zoom RSS 旅行記160 三成の実像2638 壱岐対馬を経て韓国へ19 籠城戦が行われた蔚山城

<<   作成日時 : 2019/05/23 10:57   >>

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 山の倭城めぐり2日目は、釜山子城台跡、釜山母城跡、北東の西生浦倭城跡を訪ねた後、さらにその北東にある蔚山倭城へ行きました。
 蔚山倭城も、公園になっていますが、本丸、二の丸跡などが残っており、ところどころに石垣もあり、当時の雰囲気がわずかにしのべます。ここは慶長の役の際、熾烈な籠城戦が行われた場所ですが、今は公園だけに、穏やかな平和な雰囲気が漂っていました。籠城戦について、熊本日日新聞社編「加藤清正の生涯」には、次のように記されています。
 「明・朝鮮連合軍は、日本軍が城郭整備に勢力を注ぐ間に主力の清正軍を攻め落とせば大打撃を与えられると考え、(慶長2年)12月22日に大軍を率いて蔚山城を急襲。(中略)
 西生浦城にいた清正は即座に蔚山城に戻って籠城。しかし建設中の蔚山城は堀や塀などが十分に整備されておらず、厳しい寒さに加えて、兵糧や水の備蓄も不十分だった。おびただしい数の明・朝鮮軍に取り囲まれて餓死・凍死者が続出し、戦いは凄惨を極めた。全滅覚悟で戦い抜くか、敗北を認めて城を出るか。清正は一時和議さえ決意するなど悩み抜いたという。
 落城寸前の蔚山城に日本の援軍が到着したのは翌慶長3年1月4日、明・朝鮮軍は退路が絶たれることを恐れて撤退する。2週間に及ぶ籠城戦を耐え抜いた清正は、この日、朝鮮奉行と連名で秀吉に注進状を書き、『今回の働きについては、とにかく御目にかけていただきたい』と奮戦ぶりを訴えている。
 報告を受けた秀吉は、1月25日付で清正に朱印状を宛てている。(中略)
 秀吉は清正の働きを褒めてはいるが、その後の文面は事務的な指示に移っている」などと。
 ちなみに、この頃の三成は上杉景勝の会津転封を受けて、奥州に赴いています。秀吉から転封を命じられたのは1月10日であり、2月26日には、直江兼続と連署して、禁制などを会津領に発していますから、すぐに奥州に赴いたものと思われます。ですから、清正の書状が秀吉に届いた時には、三成はすでに奥州に向かっており、伏見にいませんでした。
 この後、蔚山城籠城戦の際、日本軍が追撃しなかったことや、戦線縮小案を現地の武将が唱えたことを秀吉が問題視して、処分を下しますが、三成は、会津のことに関わっていたため、それには関与していません。しかし、現地の情勢を報告してきたのが、三成の姻戚の福原長堯や熊谷直盛らだったため、現地の武将の不満の矛先が、秀吉の死後、三成に向かうことになります。 

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