旅行記162 三成の実像2640 壱岐対馬を経て韓国へ21 朝鮮側が勝利した幸州山城の戦い

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 5月2日、景福宮を見学した後、ソウル郊外の幸州山城に行きました。ここは17年前にも訪ねましたが、一段と整備され、花などもきれいに咲いていました。幸州山城は文禄の役の際、明・朝鮮側が勝ったところで、三大戦捷地の一つです。勝利した権慄将軍の像が建ち、救国の英雄として「忠荘祠」に祀られています。山頂には高い大捷碑が建って、威容を誇っていますが、50年程前に建てられたものです(上の写真) 。
。幸州山城には、もう一つ幸州大捷碑が建っていますが、権慄が亡くなった後、部下たちが4百年余り前に建てたもので、碑文は摩滅しています。
 大捷記念館には、当時の武器類、権慄将軍の親筆、記録画、発見された遺物などが展示されていますが、ここも17年前にも訪ねています。忠義亭では、幸州山城の戦いの内容を紹介した10分程度の映画が上映されていました。韓国語でしたが、映像を見ているだけで内容がある程度わかりました。
 幸州山城で戦ったのは、精鋭兵だけでなく、僧兵、義兵、婦女子たちも一緒でした。婦女子はチマ(エプロン)で石を運び、日本軍に抵抗しました。 
 幸州山城自体は、百済時代に築城されたもので、土城が四百メートル余りにわたって復元されています。土城から三国時代の瓦や土器が出土しています。長い歴史を感じさせる城跡です。
 文禄の役の幸州山城の戦いでは、前述したように石田三成が負傷していますが、他にも宇喜多秀家、吉川広家、前野長康も負傷しています。この戦いの概略について、中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」〈吉川弘文館)の中で、次のように記されています。
 「全羅巡察使権慄(クオンユル)は明軍南下の報せに接し、これと呼応するため、京畿道の水原禿山城から移動してきたのである。兵力はわずか2300であるが、漢城郊外に朝鮮正規軍・義兵が集結することによって朝鮮士民は大きく鼓舞されることになる。くわえて、権慄は全羅道錦山(熊峙・梨峙)の戦いで小早川隆景の軍勢を退けたという経験を持っていた。朝鮮軍の拡大をおそれた日本側は、すみやかな討伐を期して幸州山城攻略を決意し、2月12日未明に宇喜多秀家以下3万余の軍勢が漢城を発する。早朝から総攻撃を開始するが、切り立った断崖や狭隘な通路に阻まれて城攻めは困難を極め、力攻めの日本側は第一柵を突破して第二柵に取り付くものの、この間いたずらに死傷者を増やしていった。
 一方の城方も、日本側の激しい攻撃にさらされるが、背後には漢江が流れており退くことなどまったくできず、文字通り背水の陣で戦ったのである。夕刻になって、権慄と同調するため京畿道水師李蘋(イビン)が10隻の船を仕立てて漢江をのぼってきたため、退路を絶たれることをおそれた日本側は兵を退き漢城へ戻った」と。
 激戦ぶりがうかがえますが、負傷した三成も後方にいたのではなく、前線に立って戦っていたのでしょう。
 

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