三成の実像2642 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」13

 間が随分空きましたが、高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の続きです。
 同書の、④「慶長3年9月19日、邢玠配下の援朝明軍は四道より朝鮮半島南岸へ攻め寄せた」の中で、史料として10月15日付の五大老連署状及び10月16日付の増田長盛書状が挙げられていることは前述しましたが、これらの書状についてさらに次のように解説されています。 
 「そこで増田長盛は、明軍の長期在陣は不可能であるという見通しを立て、島津義弘・島津忠恒らの守る泗川と立花親成の守る固城は不要であるためこれを破棄し、順天方面の明軍が撤退したのち、唐島へ集まって防御を強化するようにと指示しました。また、撤退のために必要な海上輸送の手配をしました。増田長盛が徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五人の年寄の名義で」指示をくだしたと。
 高橋氏の同書では、泗川方面の状況については、9月22日付の島津義弘書状及び9月28日付の立花親成書状を史料に挙げて、次のように解説されています。
 「9月22日の朝、明軍が泗川古城のちかくまで攻め寄せてきました。この日の島津義弘の報告によると、明軍による泗川古城攻撃の予定は翌日・9月23日であり、すでに順天では銃撃戦がはじまっていて、明水軍は泗川方面にも向かっているようです。
 泗川古城は9月28日に陥落し、同日、明軍は島津義弘・島津忠恒らのいる泗川新城のちかくまで攻め寄せてきました」と。
 唐島とは巨済島のことですが、巨済島には、島津義弘・忠恒が築いた永登浦倭城がありました(今回の旅行で麓の旧永登城跡を訪ねたことは前述しました)し、対馬にも近く、防御するには最適の地でしたから、増田長盛のこの判断は妥当なものでした。しかし、実際には、時すでに遅く、島津義弘らは明・朝鮮軍によって泗川新城まで攻められたものの、それをはね返して勝利をおさめたわけです。
 この後、朝鮮半島に渡っていた徳永寿昌・宮木豊盛が島津義弘を訪ねて、釜山に退くように伝えます。島津ら西部方面にあった諸将らは会談を持ち、巨済島に集結して撤退することを決めます。しかし、小西行長が順天倭城で敵に海上封鎖され動けないことを知った島津義弘、宗義智、立花宗茂らは小西の救援に向かい、その途中の露梁(ノリヤン)海峡で明・朝鮮軍との海戦が行われます。李舜臣はこの戦いで戦死しました。11月18日のことです。小西はこのおかげで順天を脱出し、巨済島を経て釜山から博多に戻ります。着いたのは12月11日のことです。島津勢はその前日に博多に着いています。博多で待っていた三成は島津忠恒を伴って、大坂に戻ります。このあたりのことは、高橋氏の同書の中で、一次史料をもとに詳述されていますが、追々述べていきます。
  






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