三成の実像2643 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」14

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、④「慶長3年10月1日、島津忠恒は董一元ひきいる中路軍を撃退した」の中で、10月12日付の「やともと」宛て大嶋忠泰(島津家家臣)書状が取り上げられ、その内容について次のように記されています。
 「そちらは何事もなく平和でしょうか。こちらでは大変なことがありました。9月19日に20万人ほどの敵が晋州というところへ攻め寄せてきましたので、その日に晋州・永春・昆陽の三か所から撤退しました。9月27日、泗川古城に1万5千ほどの敵が攻めてきて陥落しました。敵はこちらの人数を7、80人ほど討ち取って、すぐに泗川新城へ押し寄せてきました。
 あまりにも少ない人数で攻撃をしても無駄なことであると思い、敵が泗川新城に近付いてから戦おうと、その日は城から一人も攻撃をしかけませんでした。
 おそらく敵は、こちらの城にじゅうぶんな人数がいないと思ったのでしょうか、10月1日、20万人ほどの敵が泗川新城へ攻め寄せてきました。12時ごろに、こちらは城から切って出て、そのまま敵はくずれました。晋州の前面の川(南江)まで、およひ20キロメートルの間、野も山も、敵の切り殺された死骸でいっぱいでした。おおかた揃った首は、3万814級で、これらを首塚へほうむりました。そのほかに晋州の山などは、どれほどの死骸があるのか分からないほどです。
 わたくし大嶋忠泰の持ち場は、水の手口の矢狭間二つと、矢倉一間でしたが、そこから出撃して、敵の真ん中へ馬で駆け入り、4人を討ち取りました」と。
 泗川の戦いでの島津隊のすさまじい奮戦ぶりがよくうかがえます。位置関係から云えば、泗川新城の北東に泗川旧城があり、さらにその北に晋州城があります。明・朝鮮軍は晋州城を攻め、さらに南下して泗川旧城を陥落させたものの、泗川新城で大敗を喫すわけです。20万の大軍で攻めたにもかかわらず、3万余りの戦死者を出したのですから、明・朝鮮側の衝撃ぶりがわかります。島津が「石曼子(シマンズ)」と恐れられたのもさもあらむと思われます。
 晋州城は、文禄の役の際、2度にわたって日本軍が攻めたところで、文禄2年6月29日に陥落させました。この時の戦いには三成も加わっています。秀吉はその一方で、名護屋で明使に「大明日本和平条件」を提示していますから、和戦両様の作戦で臨んでいたわけです。三成も、明使を名護屋に連れて行ったと思ったら、また朝鮮半島に戻り、晋州攻めに加わり、また名護屋に戻って、明使を連れ戻っています。

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