三成の実像2644 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」15

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑤「慶長3年10月1日、島津忠恒は董一元ひきいる中路軍を撃退した」の中で、泗川の戦いで島津隊が討ち取った首の数を示す史料として「慶長3年10月1日、於泗川表討捕首注文之事」が挙げられていますが、次のように記されています。
 「首八千四十五               鹿児島方之衆討捕之、
  首七千五百七十七            帖佐方之衆討捕之、
  首六千六百七十二            富隈方之衆討捕之、
  首五千二百廿二              伊集院源次郎手討捕之、
  首三千三百一               北郷作左衛門尉手討捕之、
    合而三万八百十七、此外切捨不数知、」
  このうち、「鹿児島方之衆」は島津忠恒の家臣、「帖佐方之衆」は島津義弘の家臣、「富隈方之衆」は島津龍伯の家臣、「伊集院源太郎」は伊集院幸侃の嫡男・伊集院忠真、「北郷作左衛門尉」は垂水島津家、島津以久の家老・北郷三久だと、解説されています。
 討ち取った首の数はが三万余りだというのは、10月12日付大嶋忠泰書状の「三万八百十四級」という記述、他の島津家家臣の記述などとほぼ一致しますから、事実だと思われます。
 この戦いの詳しい状況について、島津義弘は10月14日付で、博多の三成に書状を送っていますが、その書状について、高橋氏の同書で史料として取り上げられ、現代語訳されています。義弘が三成に対して非常に気遣っていることがうかがえる内容です。これまで三成は島津家の取次、指南としての役目を果たしてきましたし、三成と義弘の結びつきは深いものがありましたから、当然と云えますが、義弘の低姿勢がよくわかります。たとえば、冒頭部分は次のように始まっています。
 「そちら博多へ下向されたとのことで、遠くまでお越しくださいまして、大儀の至りです。あなた石田三成様のたびたびのご苦労は申すまでもありません。見舞いのために、そちらへ使者を差し上げます」と。
 もっとも、この書状が書かれた時点では、まだ三成は博多には来ていず、到着したのは10月下旬でしたが、博多に下向することは決まっていましたし、この書状を受け取った時は、三成は博多に到着していたものと思われます。三成は博多にいて、島津氏の領国経営にも関わり、いろいろな指示を与えることになります。
 

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