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zoom RSS 三成の実像2659 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」30

<<   作成日時 : 2019/06/13 11:58   >>

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 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、H「慶長3年11月3日、豊臣政権は島津義弘・島津忠恒らの泗川合戦におけるはたらきを評価した」の中で、慶長3年11月8日付の島津義弘・島津忠恒宛近衛龍山書状が史料として取り上げられ、次のように解説されています。
 「泗川合戦における大勝利の報告が禁裏へもとどき、後陽成天皇をよろこばせたことを伝え、そのはたらきをほめたたえました。
 年寄衆・奉行衆は敵を『あまた討ち取った』『ことごとく討ち取った』とし、人数にはふれていませんが、近衛龍山の書状により、島津義弘が報告した数字は『三万あまり』であったことが分かります。
 また、年寄衆・奉行衆は『このたび大勝利を得たが、豊臣秀吉様が引き上げるとおっしゃったからには引き上げるように』と、豊臣秀吉が死んでいないかのような書き方をしていますが、いっぽう近衛龍山はストレートに『太閤(豊臣秀吉)が死んだからには、在陣する必要がないので引き上げるように』としています。これは近衛龍山が『豊臣秀吉の死去を口外しない』という起請文を書いていないためでしょう」と。
 近衛龍山は、近衛前久のことで、前述したように、秀吉が関白になれたのは前久の猶子になったからです。奉行の間で書かれた「豊臣秀吉の死去を口外しない」という内容の起請文は現在残っていませんが、高橋氏の前著「豊臣秀吉の死去は朝鮮在陣の島津義弘らにどのように伝わったのか」の中で、戸田氏鉄の「戸田左門覚書」やフランシスコ・パシオの報告書の記述が史料として挙げられていますが、伝聞であり、本当に五奉行だけにそういう遺言を残したのかどうかについては確かな史料の発掘が求められます。
 また同日付の島津忠恒宛近衛信尹書状も史料として取り上げられ、次のように解説されています。
 「『島津忠恒がみずから敵兵を討ち取ったことは、あまりにも軽はずみな行いであるが、日本の国威をあげた』としています。かつて朝鮮へ渡海しようとして豊臣秀吉の不興をかい、鹿児島へ流されたことのある近衛信尹が、島津忠恒の軽率な行為をたしなめるというのは面白いことです」と。
 前述したように、秀吉の不興を買った近衛信尹(龍山の子)は、島津家に預けられますが、それによって島津との関わり合いができたために、「軽はずみな行い」というような歯に衣着せぬ言い方ができたのだと思われます。これも前に触れたように、関ヶ原の戦いの際、京都にいた信尹は、戦後島津家の家臣たちを匿い、家康と島津家の仲介役を買って出ています。

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