三成の実像2648 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」19

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑥「慶長3年10月14日、島津龍伯は近衛邸の連歌会に参加した」の中で、この時期の後陽成天皇の体調について、さまざまな史料を取り上げながら、まず次のように記されています。
 「後陽成天皇は慶長3年2月1日に体調をくずし、その後小康をえましたが、8月13日にふたたび体調をくずし、8月15日からは毎日祥寿院瑞久の診察をうけ、8月26日にふたたび小康をえました。これは、豊臣秀吉が重篤であった時期とかさなっています。
 9月16日から、照高院道澄らが後陽成天皇の病気平癒のための祈祷をはじめました。ちなみに照高院道澄は、この3日前の9月13日に島津義弘の病気平癒のための祈祷をを成就した直後でした。
 10月1日時点での後陽成天皇の病状は、盛方院浄慶の診断によりますと『やや快方にむかっている(ちと御脈もやはらきまいらせ候)』であり、山科言経が医師・玄朔から聞いたところによりますと『8月から変化なし(帝王御悩之様子相尋之、同扁之由成、去々月より御煩云々)』とのことでした」と。
 秀吉は後陽成天皇の聚楽第行幸を実現するなどして、天皇の権威を利用して天下人の地位を確立しましたが、行幸の際、家臣団の行列のトップを務めたのは、増田長盛と三成でした。
 後陽成天皇は、朝鮮出兵の際の秀吉の渡海には反対の立場で、そのことを記した宸翰も発しており、秀吉も渡海を断念しています。もっとも、秀吉は当初、天皇を北京に移して中国皇帝にする壮大な計画を考えていました。天正20年5月18日付で秀次に対して「覚書」を発しており、その内容について、中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)の中で、次のように記されています。
 「秀次は翌年の正月ないし2月に聚楽を発し、朝鮮から中国に入って『太唐の関白職』に就くことが予定される。秀吉は秀次の出馬までには明全域をも平らげる心算であった。さらに、翌々年には、秀次につづいて後陽成天皇も北京にうつされる。換言すると、日本の天皇を中国皇帝の地位につけるということである。これにともなって、日本の帝位は、皇太子若宮か皇弟智仁親王(八条殿)に譲られ、日本の関白には秀次の実弟であり秀長の養嗣子となった豊臣秀保か宇喜多秀家が就く。朝鮮は当面、宮部継潤が留守居となるが、最終的には豊臣秀勝ないしは宇喜多秀家が置かれ、九州には豊臣秀俊(のちの小早川秀秋)が入ることになる」と。
 この時点では、漢城陥落の知らせを受けて、秀吉は強気の姿勢になっていたことがわかります。しかし、制海権を朝鮮軍に奪われるなどして状況が悪化するに及んで、明への侵攻を止めようにという6月3日令を携えて、三成らが秀吉に代わって渡海することになります。

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