三成の実像2649 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」20

  高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑥「慶長3年10月14日、島津龍伯は近衛邸の連歌会に参加した」の中で、この時期の後陽成天皇の体調について、さまざまな史料を取り上げながら、記されていますが、その続きです。
 「10月17日、奉行の前田玄以が上京し、後陽成天皇の病状を見舞いました。ちなみに五人の奉行衆のうちで天皇に『御目見』できるのは前田玄以のみです。
 10月18日、後陽成天皇は、勧修寺晴豊・久我敦通・中山親綱ら三人の伝奏を前田玄以のもとへ遣わし、隠居の意向をつたえました。前田玄以は清涼殿へ、八条宮智仁親王・伏見宮邦房親王・宮・摂家・清華・外様衆・内々衆を招集し、後陽成天皇の譲位について談合しましたが、何も決まりませんでした。
 さらに10月21日、後陽成天皇は、勧修寺晴豊・久我敦通・中山親綱ら三人の伝奏を前田玄以のもとへ遣わし、、八条宮智仁親王に譲位する意向をつたえました。これは東宮良仁親王の廃嫡を意味します。豊臣秀吉が生前に、後陽成天皇の後継者としてさだめたのは第一皇子の良仁親王でした。良仁親王の生母は近衛前久女(近衛前子)です。智仁親王は豊臣秀吉の猶子でしたが、天正17年(1586年)、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれたため、八条宮家を創設し、別家となっていました。智仁親王の生母は勧修寺晴右女(勧修寺晴子)、正室は京極高知女、側室は九条兼孝女です」と。
前田玄以は五奉行の一人ですが、京都所司代として朝廷との交渉に当たってきましたから、天皇に「御目見」することができたのでしょう。慶長5年7月17日付で家康弾劾状である「内府ちかひの条々」は前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行の連名で出されたのにもかかわらず、関ヶ原の戦いの後、玄以だけ処分も改易もされなかったのは、朝廷のつなぎ役としての玄以の必要性を家康が重視したからだと云われています。
智仁親王は、後陽成天皇の弟ですが、秀吉の猶子となった時点で、天皇家を離れ、秀吉の後に関白の地位を継ぐはずでした。しかし、秀吉の子が生まれたため、その道は閉ざされ、八条宮(桂宮)になったわけです。そういう意味では、智仁親王もまた秀吉に運命を翻弄された人物です。
 そういう別家となった智仁親王に、後陽成天皇が譲位しようとしたのですから、豊臣政権が承諾するはずはなく、この後、天皇に譲位の撤回を求める運動が起こりますが、このことについては後述します。ちなみに、智仁親王の母の勧修寺晴子は、関ヶ原戦いの直後、秀吉の未亡人の高台院(おね、ねね)が逃げ込んだところで、これをもってしても、高台院が家康の味方をしていた通説は成り立ちません。

 

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