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zoom RSS 三成の実像2650 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」21

<<   作成日時 : 2019/06/04 10:34   >>

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  高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、E「慶長3年10月14日、島津龍伯は近衛邸の連歌会に参加した」の中で、この時期の後陽成天皇の体調について、さまざまな史料を取り上げながら、記されていますが、その続きです。
 「前田玄以からの報告をうけた徳川家康は、10月24日、まず山科言経・京極高次らと内々らと内々に談合し、さらにあくる10月25日の朝、山科言経・西笑承兌・閑室元佶らと談合し、後陽成天皇の譲位に反対する意向を決めました。
 おなじく10月25日、徳川家康は決定事項を増田長盛・長束正家・瑶甫恵瓊らへつたえ、年寄衆の意見をとりまとめるように指示しました。その夜、徳川家康は自邸において増田長盛と雑談し、『禁裏のこと(譲位問題)は4、5日のうちに解決するだろう』という見通しをたてました。
 10月26日、徳川家康は、京都の勧修寺晴豊・久我敦通・中山親綱らのもとへ、増田長盛・長束正家らをつかわしました。またこの日、譲位問題について毛利輝元の同意をえました」と。
 増田と長束が、10月26日、公家衆に意見を言ったその内容が、九条兼孝の日記に記され、高橋氏の同書でその部分が史料として取り上げられ現代語訳されていますが、後陽成天皇が弟の智仁親王への譲位に反対する理由について、次のような点が挙げられています。
 第一皇子である良仁親王をさしおいて、智仁親王に譲位するというのは問題であること、亡き秀吉は良仁親王を天皇の後継者と定め、諸大名もそのつもりで年頭の挨拶をしていたこと、秀吉は智仁親王を猶子にして関白の位を譲るつもりだったものの、鶴松が誕生したため、智仁親王は宮家に戻り天皇が八条宮を創設したのに、それを変えるのは分別がないこと。
 ところで、この史料には、「先日、徳川家康・毛利輝元・前田利家・小早川秀秋・上杉景勝ら五人の大名へ、勧修寺晴豊・久我敦通・中山親綱ら三人の勅使をもって『八条宮智仁親王へ譲位をしたい』とつたえた」とあり、家康だけでなく、他の大名にも譲位の意思を伝えていることも記されています。秀秋以外は五大老ですから、彼らが豊臣政権の有力大名だったことは確かです。
 もっとも、高橋氏の同書では、「御湯殿上日記」慶長3年11月18日条の記述から、「徳川家康は後陽成天皇の譲位について、正式に諌止しました。この時点で徳川家康は禁裏(朝廷)にたいして影響力をもっていることが分かります」と指摘されています。しかし、豊臣政権で家康だけが特別な地位にあっかどうかはなお検討の余地があります。
 この譲位問題の間、三成は博多へ下向し、朝鮮からの撤兵や島津氏をはじめとする西国への指示に当たっています。
 

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