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zoom RSS 三成の実像2651 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」22

<<   作成日時 : 2019/06/05 18:53   >>

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 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズA 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、F「慶長3年10月30日、島津義弘らは朝鮮からの撤退を決意した」の中で、それまでの経緯を、史料として「浙江省に到着した宗安らを現地の役人が取り調べて朝廷に報告した文章」、10月20日付の島津忠恒宛宗吉智書状、姜「看羊録」の記述を挙げながら、次のように説明されています。
 「10月18日、南海の宗吉智は、明軍(西路軍提督・劉綖)との和平交渉のため、景轍玄蘇と家臣・柳川調信を順天へつかわしました。景轍玄蘇は、宗吉智の側近として外交交渉にあたっていた僧侶です。
 10月20日、宗吉智は、この和平交渉に懐疑的な島津忠恒へ書状を書き送り、『うたがう必要はありません』と意見を述べました。
 10月21日、董一元配下の軍官『渭濱(=茅国科)』が人質として泗川にきたので、島津義弘は彼を目付けである寺沢正成のもとへ送りました」と。
 宗吉智は宗義智のことであり、対馬の藩主で、小西行長の娘を妻としています。宗義智も小西行長ももともと朝鮮出兵には反対の立場であり、なんとか戦いを回避しようとしました。文禄の役が始まる前、朝鮮通信使に伴って柳川調信と玄蘇は漢城へ行きましたが、交渉は不調に終わりました。行長も、朝鮮半島に渡る前、一ヶ月間、対馬に留まり、交渉がまとまるよう待っていました、しかし、それはかなわず、小西も宗も一番隊として朝鮮国に侵攻しています。しかし、戦いを始めてからも、なんとか早く和平交渉を整えようと尽力していますし、それは三成の思いも同様でした。
 宗義智は、文禄の役の際は、漢城さらに平壌まで侵攻しましたが、明軍が攻めて来たため、漢城まで撤退し、さらに和平交渉を整えるべく、釜山付近まで撤退し、小西行長と熊川倭城に在番しています。慶長の役の際は、宗は南海倭城に在番しています。
 前述したように、今回の壱岐対馬韓国旅行では、対馬にある宗家の菩提寺である万松院を訪れ、義智の墓にもお参りしてきました。また熊川倭城にも登りましたが、残念ながら、南海倭城を訪ねる予定はありませんでした。位置的には、巨済島のさらに西にある南海島に作られた倭城であり、泗川新城の南にあります。
 佐賀県立名護屋城博物館発行の図録「秀吉と文禄・慶長の役」に、文禄5年6月16日付の景轍玄蘇書状が掲載されていますが、明使の副使に起用された沈惟敬の先導として伏見に来たことが記されています。6月12日に大坂に到着し、27日に秀吉に謁見しています。玄蘇が終始、和平交渉に携わっていたことがわかります。

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