三成の実像2652 高橋陽介氏「慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」23

 高橋陽介氏の「『一次史料にみる島津の関ヶ原』シリーズ② 慶長4年1月3日付島津龍伯起請文をどのようにとらえるか」の、⑦「慶長3年10月30日、島津義弘らは朝鮮からの撤退を決意した」の中で、10月30日付で小西行長・立花親成・宗吉智・島津義弘が署名した「覚」が史料として掲載され、次のように説明されています。
 「一、東目衆が撤退してから、相談して日付を決め、順天(小西行長)・南海(宗吉智)・泗川(島津義弘)・固城(立花親成)の四か所を引き払って唐島まで撤退すること。
 一、順天の小西行長と泗川の島津義弘がそれぞれ和平交渉をし、両方とも成立すれば一段とよいのですが、どちらか片方が成立しそうであれば、一日でもはやいほうで人質を受け取って和談を成立させ、あらゆる通路から順次撤退すること。
 なお、泗川・固城の舟を順天に遣わし、人数を撤退させること。泗川の船は南海まで、固城の舟は唐嶋瀬戸まで送りとどけること」と。
 「東目衆」という言い方は、高橋氏の書を読むまで知りませんでしたが、次のように説明されています。
 「慶長の役の末期、朝鮮在陣の諸将は、ふたつの軍閥を形成していました。そのうち加藤清正・黒田長政らを中心としてまとまって軍事行動をするグループは『東目衆』と呼ばれ、小西行長・島津義弘らを中心としてまとまって軍事行動をするグループは『西目衆』と呼ばれていました。
 もちろん、関ヶ原合戦にいたる派閥抗争を二極化で説明することはできませんが、朝鮮における諸将の精神的紐帯は帰朝後も継続し、関ヶ原合戦にいたる派閥抗争におおいに影響をあたえました」と。
 「武断派」と「吏僚派」との対立はなかったとするのが高橋氏の見解ですが、その見解には私も同意します。「武断派」=北政所=家康、「吏僚派」=淀殿=三成という構図が長く通説として信じられてきましたが、北政所も淀殿も関ヶ原の戦いの際は、秀頼を推戴した毛利輝元・宇喜多秀家の二大老、増田長盛・長束正家・前田玄以・石田三成の四奉行による豊臣政権寄りの立場であり、大津城開城交渉に関しても北政所と淀殿が連携していたという跡部信氏の見解があります。
 上の書状における「東目衆」は、釜山の東に在番する諸将を指し、それに対して「西目衆」は釜山の西に在番していた諸将を指すものと思われます。「西目衆」の結びつきの強さは、順天城で孤立していた行長を救援に行ったことでもわかります。この「東目衆」と「西目衆」の対立という、高橋氏の新たな見解に注目して、関ヶ原の戦いに至る経緯を解明する必要性があるという思いを持ちました。

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