石田三成の実像2687  大河ドラマ「葵 徳川三代」8 家康の策に乗せられ挙兵?

大河ドラマ「葵 徳川三代」では、徳川家康が上杉攻めのため大坂城から出陣した後の7月1日、三成からの家康を討つとの密書が片桐且元に届き、淀殿と対応を協議しますが、片桐は家康が三成の蜂起を見越しているとわかっていると述べたため、それを聞いた淀殿が恐怖を覚えるという描き方になっていました。
 このドラマでは、前述したように、三成を義に生きた武将として、好意的に捉えられていましたが、三成が上杉攻めに向かう家康の作戦に乗せられて挙兵したということや、関ヶ原の戦いにおいても三成は家康に関ヶ原におびき出されたということなど、三成は家康の策にまんまと乗せられたという捉え方がされていたのは、残念な描き方でした。
 三成は佐和山に引退後、家康の指示に従ったことは、家康暗殺計画の際、三成が前田利長を牽制すべく出兵したことで明らかですし、三成の嫡男の重家が会津攻めに従軍することを、家康は疑っていなかったかもしれません。
 佐和山に重家を迎えに来た大谷吉継に、三成が挙兵の意志を打ち明けたところ、吉継は無謀なことだと諫めるものの、再度佐和山城を訪れた吉継が挙兵に参加するという場面は、感動的でした。
 もっとも、吉継が「勝ち目はない。だが負け戦さと承知の上で、家康殿に挑む志は気高い」と言うところは、引っかかります。吉継には、多くの一族、家臣を抱えていますから、「負け戦さと承知の上で」戦うことなどありえないのではないでしょうか。勝ち目があったからこそ、三成に味方したはずです。吉継は三成との友情に殉じたという捉え方がよくされますが、現代人受けする見方であっても、現実的ではないような気がします。
 三成と吉継の間に、どのような話し合いがあったのかは、一次史料からはわかりません。このドラマでは、三成には人望がないから、毛利輝元を総大将にして、三成がその配下になって取りはからうがいいと吉継が三成に助言していましたが、こういう捉え方もよく小説などでされるものの、本当かどうか疑問に感じます。三成には人望がなく、吉継は大きな視野でものを見る人物だという見方がされていますが、実際は三成も太い人脈を築いていました。
 以前にも紹介しましたが、挙兵を打ち明けたのは吉継の方で、三成はそれに反対して諫めたという、これまでとは全く逆の見方が、高橋陽介氏によってなされており、今までの通説を検証し、見直す必要があるように思います。
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